「豊臣秀吉」に仕えた2人の武将それぞれの決断 黒田孝高、藤堂高虎から私たちが学ぶこと

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そして、慶長5(1600)年関ヶ原の合戦が起きます。息子の長政が豊臣恩顧の武将を徳川方に引き込むほか、実戦でも大活躍する一方、当時豊後の中津にいた孝高は九州の攻略を目指します。

みんなが関ヶ原に行ってガラ空きの九州をいまのうちに攻略してしまおう。天下分け目の関ヶ原。両軍あわせて15万超の「戦」はそう簡単には終わらない。最後に勝つのは家康だろうが、勝っても疲労困憊。その家康と日本一をかけて「優勝決定戦」をするのだ!

官兵衛は中津城の金蔵を開いて領内の百姓や浪人を集め約9000人の即席軍を作り、再起を期し西軍についた大友義統(宗麟の息子)の軍を別府の石垣原で撃破。その後も小倉城や久留米城、柳河城を開城するなど九州を平らげる勢いでした。

しかし、「関ヶ原」が案に相違してわずか1日で決着がついてしまいました。

家康は孝高にはいっさいの恩賞を与えていないことから、その力を認め、怖れていたのでしょう。秀吉と家康に恐れられた“戦国最強”の男といえるかもしれません。(姫路城と黒田孝高、中津城と黒田官兵衛より)

■黒田孝高の決断 つねに状況を冷静に見ながら、己の立場で何ができるかを見極め続け、チャンスと見たら逡巡しない。天下取りはかなわなかったが、正確な情報分析こそが最善の状況判断を生むことを学びたい。

主君を10人も変えた藤堂高虎

城の設計を縄張りといいますが、藤堂高虎は縄張りの名人でした。彼が関わった城は18とも20ともいわれ、日光東照宮の造営奉行や上野寛永寺の造営も手がけています。

彼はあの時代に主君を10人も変えています。それは彼が頭脳明晰で、主君の器量や時勢を読む目を持っていたことに加え、城作りの特技がそれを可能にしたのだと思います。

近江の小さな土豪の次男に生まれた藤堂高虎は何人かの武将に仕えた後、羽柴秀吉の弟、秀長に300石で仕えたことで運が開けます。賤ヶ岳の戦いや紀州征伐にも従軍し、秀吉にも認められました。その後も四国攻めや九州征伐でも功を上げます。

秀長が病死すると秀吉の甥の秀保に仕えますが、秀保も病死してしまいます。決して高虎が主君を裏切ったわけではありません。その証拠に秀吉が朝鮮に出兵した文禄の役に高虎は秀保の代理として出征し、秀保が亡くなると高野山で出家します。高虎の才能を惜しんだ秀吉が還俗させると、そのまま秀吉に仕えます。秀吉は高虎の武勇はもちろんですが、とくに政治力の高さに期待してのことでしょう。

世間では「交渉ごとは佐渡守(高虎のこと)に」と言われたように、弟の秀長に代わる存在になっていきました。

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