沢木耕太郎が説く「偶然の出会いに身を委ねよ」 国内旅のエッセイ集『旅のつばくろ』より

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

小諸駅で降りると、ちょうど正午を過ぎたところだった。蕎麦屋にでも入ろうかと思って歩いていくと、鰻屋がある。前日、小淵沢で食べようと思ったが、店に入ったのが遅すぎて、もう終わりだと断られてしまった。

ちょうどいいと、鰻を食べることにした。すばらしくおいしいというわけではなかったが、それなりに満足して、小諸市内をぶらぶら散策したあと、軽井沢から新幹線で帰ることにした。小淵沢から中央本線で帰るつもりが、軽井沢から北陸新幹線で帰ることになってしまった遠回りが、なんとなく心楽しい。

それもあったのだろうか。小諸から軽井沢へ向かう「しなの鉄道」の車内で、小諸駅で市内地図を貰うついでにひょいとつまんだ軽井沢のパンフレットを浮き浮きした気分で眺めていると、向かいに座った上品そうな老婦人が話しかけてきた。

軽井沢から東京に戻ると決めていたが……

「軽井沢にいらっしゃるんですか」

はあ。私が曖昧な返事をすると、にこやかにこう言った。

「クモバイケはとても綺麗でしたよ」

「クモバイケ?」

「そこです」

老婦人が指さしたのは、私が広げていたパンフレットの表紙だった。慌てて引っ繰り返して見ると、そこには燃えるような紅葉の木々が立ち並んでいる水辺の写真が載っていた。雲場池、というらしい。

老婦人によれば、午前中そこに行くと、今日が最高という紅葉の状態になっていたという。明日は雨が降るらしいから、きっと色は薄れてしまうだろう。見るなら、今日のうちですよというのだ。

その老婦人は、御主人を亡くしてからはひとり旅を趣味としていて、今日も軽井沢から小諸を観光して所沢に帰るところなのだという。

私は軽井沢から東京に帰ることは決めていたが、軽井沢に立ち寄るかどうかまで決めていなかった。少なくとも軽井沢で紅葉を見ようなどとは思っていなかった。

次ページ偶然を生かさない手はない
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事