コロナ感染者を罵倒する人々への強烈な違和感

翻って自分の首を絞める行為となりかねない

まさに村八分の状態と言いたいところだが、感染者のプライバシーを暴き立てるだけでなく、感染者の存在そのものを真っ向から否定する態度は、「ここから出ていけ」という言葉が表す通り正確には「村十分」である。先日、大阪府泉南市の市議が自身のフェイスブックに「感染者は、私ら高齢者に取っては殺人鬼に見えます」と発言したのが非常に象徴的だ。これは「未知のウイルス」が身近に迫りつつあることの不安と恐怖を、「特定の人」「特定の集団」への攻撃や排除に関心を向けることによって、心理的な安定性を取り戻そうとする防衛機制によるものといえる。だが、もはや誰が感染してもおかしくない状況下では、自分で自分の首を絞める行為にしかならない。

作家のスーザン・ソンタグは「ひとつの謎として強く恐れられている病気は、現実にはともかく、道徳的な意味で伝染するとされることがある」(『隠喩としての病い』富山太佳夫訳、みすず書房)と述べたが、どうやら新型コロナウイルス感染症も「単なる新興感染症以上の意味」が付与されているようである。それは、災いをもたらす「疫病神」のようなスティグマ(負の烙印)であり、感染者本人に非があるような「逸脱者」としてのレッテルも貼り付けられている。

科学的な知見よりも「道徳的な意味」を優先

「油断をしたり」「落ち度があったり」「軽はずみ」な行動を取っている者が感染しやすいという偏ったイメージの流布は、「どのような人にも感染のリスクがある」(ウイルスは人を差別しない)という科学的な知見よりも、「道徳的な意味」を優先させて犯人捜しとバッシングに傾倒するように促す。そのような傾向が強ければ強いほど、感染者本人が感染経路の手掛かりを明らかにして、当局に協力する動機付けは失われるだろう。

もちろん、感染拡大を抑制するには1人ひとりの努力も必要だが、マクロ的に見れば「人と人との接触の8割減」を実現できる効果的な経済対策が遅々として進まず、地域ごとの感染状況が詳細に把握できる客観的なデータに事欠く現状では難しい。例えは悪いかもしれないが、どのような猛獣がいるかも知らされず、何の食料も持たないといった不利な条件で「巨大なサファリパーク」に投げ込まれるようなものだ。しかも今回のウイルスは「無症状」「潜伏期間の長さ」などといった通常の認知では捉え切れない領域で進行していく。そのため、「道徳的な意味」に振り回されることは、これらの絶望的なシチュエーションの後押しを受けて、ますます事態の悪化を助長することにしかならない。

このような精神状態に陥りやすい理由の1つには、当然ながら直接的には重症化して死亡する可能性という「死の恐怖」がある。だが、もっと言えば、上記の経済対策と客観的なデータという安心材料が乏しく、自分や身内が感染者となることの不安感だけが増大する中で、一度感染してしまったら検査の機会を与えられず治療もされない「見捨てられる恐怖」と、陽性が確定した途端に一般社会から別のカテゴリーに移行する「隔離の恐怖」があるだろう。これは一時的なアイデンティティの危機にもなりうる。

次ページ『ペスト』にも描かれていた隔離の恐怖
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