熱帯林に消えた死の鉄路、泰緬鉄道の戦後75年 「平和と繁栄のルート」への再生も可能だ

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園内には、日本軍が作ったコンクリート製の老朽化した槽があり、底から湯が沸き出ている。近くの高級軍人用の建屋には、湯船と洗い場を備えたコンクリートの6畳ほどの個室が4部屋並んでいた。施設の来場客が使う浴場の隅にも、兵士が湯を浴びていたとみられる樋が残され、溝を湯が流れていた。こうした日本軍の施設は、以前は子どもたちの遊び場だった。

この近くに日本軍の野戦病院があったという。マネジャーの90代になる祖父は若い頃、野戦病院で死亡した日本兵の埋葬を手伝っていた。「埋葬地はこの隣の森だった。そこを掘れば、かなりの数の遺骨が必ず見つかる」と、男性は断言した。

鎮魂の地、タンビュザヤ

ウエガレエから車で20分も走ると、泰緬鉄道のビルマ側の起点であり、タイからは終点だったタンビュザヤに着く。大戦中、線路はここでモーラミャインから延びる幹線鉄道と接続され、タイから到着した機関車はそのままモーラミャイン方面へ軍事物資を運んだ。

今、タンビュザヤは鎮魂の地だ。建設当時、所々に設けられた作業キャンプでは、栄養不足と不衛生な環境下でコレラや赤痢が蔓延し、タイとビルマの全工区の犠牲者数は「日本兵1000人、捕虜1万3000人、アジア人労働者3万3000人」(『泰緬鉄道 戦場に残る橋』広池俊雄、読売新聞社)との推定から、「ビルマ人労働者だけで8万人にのぼった」との見方まで錯綜している。当時から正確な記録がなく、アジア系労働者の実態は特に把握できていない。

戦後に英国などが整備した広大な連合軍墓地には、英国、豪州、オランダ、アメリカなどの兵士約3800人が眠る。芝に並ぶ小さな墓碑の一つずつに名前が刻まれ、その多くは20代だ。

屋外展示されている当時のC56機関車(筆者撮影)

町には4年前、泰緬鉄道の博物館も開館した。軍政時代は同じ所に、実際に使われていた機関車「C56」が草むらに無造作に置かれていた。今は黒の塗装で化粧直しされ、先端部には障害物除けのスカートが装着されている。

博物館の裏手にはモーラミャイン方面からの線路が通っており、脇に「死の鉄道の起点」の碑が立つ。これも新品に取り換えられていた。

ここから南へ約1㎞。国道から少し入った草地に、日本軍が1944(昭和19)年2月に建てた工事犠牲者の慰霊碑とパゴダが佇んでいる。奥の雑木林には、泰緬鉄道の築堤が草に覆われて土に還ろうとしていた。

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