熱帯林に消えた死の鉄路、泰緬鉄道の戦後75年 「平和と繁栄のルート」への再生も可能だ

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村には子どもたちが通う学校や、粗末な木のベッドを土間に並べただけの診療所の小屋もある。看板には「病院」と書かれているが、ミャンマーのほかの少数民族武装勢力の支配地域と同じく、医師はいない。医療環境の貧しさは、すべての少数民族勢力が抱える最大の悩みだ。この村には6年前も訪れた。そのときは蒸し暑い施設内に5人の看護師が働き、4人が入院していた。住民の診察代は無料だ。

「この道は泰緬鉄道が通っていた跡だ。カンチャナブリはあっちの方だよ」――。最初の訪問時に村の関係者から不意にそう言われたが、線路の跡など見当たらなかった。今回村を再訪した際、土にめり込んでいるラワンのような木片を、彼らが指で示してくれた。「枕木の残骸だ」という。注意深く足元を見ると、小道の所々に木片が埋まっていた。

樹林の中に延々と続く盛土

脇の茂みを数十メートル入ると、木々の間に日本軍が掘った井戸と貯水施設があった。井戸は円筒形のコンクリート製で、厚い蓋で閉じられている。貯水施設は約3m四方の大きさで、内側に水が溜まっていた。小道の反対側には、大きな岩をくり抜いた穴が草地にぽっかり開いている。建設当時、線路に敷く砂利を採った跡だった。

小道の数キロメートル先にはゴムの森がある。その樹林の中に、雑草に覆われた高さ1m、幅2mほどの盛土(築堤)が100m以上続いていた。真っすぐ約5㎞先がスリーパゴダパスだ。この山奥に鉄道が敷かれていた事実を、ようやく確信した。

当時、スリーパゴダパス一帯で泰緬鉄道の建設に従事したビルマ人作家リンヨン・ティッルウィン氏は、こう記している。「捕虜たちはジャングルで切り倒した木材を運び出し、パヤトンズ駅の建設に取りかかった。象、象使いたちも厳しく働かされていた」「労務者たちはダイナマイトで爆破した岩石を線路に敷くために砕く作業に従事した」(『死の鉄路』毎日新聞社)――。以前にニホン・イド村で取材した70代の男性は、「ここには日本軍が駐屯していた。モン族といい関係だったが、戦争末期は乱暴になったそうだ」と話した。

ニホン・イド村とミャンマー政府が管轄するパヤトンズは、原野をはさんで向き合っている。NMSPと国軍は一帯で戦闘を交わし、特に90年代が激戦だった。2年前に停戦合意したが、昨年末に村で国軍と衝突が起き、大勢の住民がタイ側へ避難した。停戦後も、緊張はまだ解けていない。

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