鉄道3線を引き寄せた「小江戸」川越の持つ魔力 明治以前から栄えた商都、「蔵の街」で人気に

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明治期から大正期にかけて、川越には鉄道と並んで大きな変革が押し寄せていた。それが建物の近代化だった。川越商人たちは東京に追随するように建築物の近代化を進めていた。その総責任者に指名されたのは、三菱を退社したばかりの建築家・保岡勝也だった。

保岡は、三菱が手がけていた東京駅丸の内のオフィス街計画に関わっていた。計画は当初、お雇い外国人のジョサイア・コンドルが責任者を務め、途中からコンドルの弟子だった曽禰達蔵にバトンタッチしていた。そして、オフィス街計画の後期には保岡が総責任者に就任し、計画を完遂させた。

旧八十五銀行本店。建築家・保岡勝也は丸の内のオフィス街を手がけた後、川越で辣腕をふるった(筆者撮影)

その後、保岡は三菱を退社し、建築家として独立。得意の銀行を中心に商業建築を次々と手がけ、川越経済の中心的機能を担っていた川越貯蓄銀行本店も設計した。その秀逸なデザインを目にした山崎嘉七は、自身が副頭取を務める八十五銀行(現・埼玉りそな銀行川越支店)の設計を保岡に依頼する。これを機に、保岡は川越で名声を集めていく。

保岡の手がけた洋風建築は、大火以降に増えていった蔵造りの街並みと見事に調和した。現在、多くの観光客が押し寄せるメインストリートの川越一番街には、八十五銀行のほか、川越初の百貨店として1936年にオープンした山吉デパート(現・保刈歯科醫院)が現存している。どちらも保岡の設計で、これらは蔵の街並みとともに、多くの来街者を呼び寄せている。

「小江戸」として人気の街に

川越は太平洋戦争で大きな被害を受けなかった。それは幸いなことではあったが、明治期の街並みがそのまま残ったこともあって、高度経済成長期以降のモータリゼーションに対応した都市構造とは言い難い。

西武鉄道の特急「小江戸」。写真は2017年に、川越をイメージした「プラチナ・エクスプレス(川越Ver.)」デザインを施した車両(筆者撮影)

そうした不便な面はあるものの、川越市では建築家や地元住民から声があがり、昭和40年代半ばから街並みを保存する動きが生まれた。街並み保存運動には行政も賛同を示し、1989年からは景観保護を目的とする電線類の地中化に着手。伝統的建造物を残すための条例も制定した。また、1993年からは西武鉄道が新宿線で特急「小江戸」の運転を開始。小江戸・川越を広くアピールすることに貢献した。

こうした官民の協力が、変わらない街並みを保ち、そして小江戸・川越という観光需要を創出する要因にも一役買っている。

川越は観光地としても盛況ぶりを見せているものの、昨今は蔵造りの街並みが残る旧来の中心地だった西武鉄道新宿線の本川越駅・東武東上線の川越市駅から、町外れに位置していたJRと東武の川越駅側へとにぎわいが移行している。小江戸・川越を取り巻く環境にも変化が生じている。

小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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