鉄道3線を引き寄せた「小江戸」川越の持つ魔力 明治以前から栄えた商都、「蔵の街」で人気に
商人によって街が再建されたことからもうかがえるように、川越商人は江戸期から莫大な富を築き、その財力を背景にして隠然たる力を発揮していた。そうした川越商人の暗躍は、時代が江戸から明治に移っても変わらなかった。江戸時代の川越は、北の勢力から江戸を防衛する拠点でもあった。そのため、幕府からの信頼が厚い親藩・譜代大名が歴代藩主を務めた。
川越藩は大きな石高を有し、参勤交代時に川越街道を通った。そのため街道は整備され、宿場町が形成されていく。川越街道の宿場町は大いににぎわい、それが街道沿いに点在していた村の発展にもつながっていく。川越街道の発展は、後に開業する東上鉄道(現・東武東上線)の布石にもなった。
江戸時代における川越の繁栄は、新河岸川の舟運による産物だった。新河岸川の舟運によって、一大消費地の江戸とつながっていた川越は大繁栄した。
鉄道を拒んだ川越商人
舟運で繁栄を築いた川越の商人たちは、埼玉初となる銀行を設立したり、同じく埼玉初の電気事業に着手したりと、時代に即応したビジネスを展開していく。こうした川越商人の先取的な取り組みが、さらなる発展をもたらすことにつながる。当時の埼玉県下には鉄道の要衝地として栄え始めていた大宮や鋳物の街として工業化が進む川口、県庁が置かれた浦和といった都市が存在したが、それらより川越が何歩も先んじていた。
先取的な川越商人たちの取り組みの多くは、川越商人のリーダーだった綾部利右衛門の力量と思想が大きく寄与している。綾部は1922年に川越が市制を施行する際に初代市長に推されるほどの人望を集めており、私利私欲だけで動く商人ではなかった。
人望も厚く、先見の明がある綾部ではあったが、舟運を脅かす鉄道に関しては排他的だった。川越商人たちにとって、自分たちの繁栄は舟運によって築かれたものであり、それを脅かす鉄道は排除すべき異物でしかなかった。そのため、明治半ばに鉄道建設の機運が盛り上がっても、川越商人たちの間から鉄道を望む声は高まらなかった。
かたくなに鉄道を拒む川越商人たちに対して、投機界の魔王と呼ばれて東京で勢力を拡大させていた実業家の雨宮敬次郎は、1889年に甲武鉄道(現・JR中央線)を開業させる。甲武鉄道は、新宿―立川間を結ぶ鉄道で、開業によって多摩から東京中心部への物流を一気に変化させた。
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