鉄道3線を引き寄せた「小江戸」川越の持つ魔力 明治以前から栄えた商都、「蔵の街」で人気に

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そして、甲武鉄道の国分寺駅から分岐して川越まで線路を延ばす目的の川越鉄道(現・西武鉄道新宿線および国分寺線の一部)が設立される。川越鉄道は順調に線路を延ばし、1895年に川越に到達する。

西武鉄道の本川越駅。川越中心部に立地する3駅のうちもっとも早い1895年に開業した(筆者撮影)

川越鉄道と甲武鉄道の鉄道ネットワークは、多摩を経由してから東京の中心部に向かう。そのため、新河岸川の舟運と比べて距離的にロスは多かった。しかし、船と鉄道とでは輸送力や運行頻度が段違い。川越鉄道の開業によって、舟運で繁栄を築いてきた川越商人の立場は揺らいだ。

川越商人たちに危機感を募らせたのは、迫ってくる鉄道だけではなかった。1893年に発生した大火は土蔵96棟を全焼させ、237棟が半焼するほどの被害を出した。大火による川越の荒廃と国分寺から延びてくる鉄道の脅威、2つの危機が川越商人たちの考え方に転換を促す。

再建にあたり、商人たちは焼失から免れた建物の多くが蔵造りであることに着目。ここから、川越商人たちは蔵造りが防火に有用であることを察知した。以降、店蔵・袖蔵が増えていく。特に、通りに面した店蔵は、江戸情緒を残した街並み形成に大きく寄与し、現在の川越を“小江戸”“蔵の町”と言わしめるほどになる。

鉄道と洋風建築に街の復活託す

そして、蔵造りによって川越再建に取り組んでいた川越商人たちが、街の復活に託した新たなツールが鉄道と洋風建築だった。

川越の中心部にオープンした山吉デパートは、現在も病院として使用されている(筆者撮影)

川越再建のまちづくりとして、川越商人は東京を手本にした。明治維新までの江戸は、市街地の中心部に武家屋敷が広がっていた。商人・町人はその外縁部に店舗・家屋を構えており、人口規模に比して商取引が活発な都市ではなかった。だからこそ川越が商都として繁栄することができたわけだが、明治以降の東京は目まぐるしく発展を遂げていた。大火からの復興が一段落すると、商業活性化のために川越商人たちが東京を模倣したのは自然な流れといえるだろう。

東京に追随すべく、川越商人のリーダーである綾部が音頭をとって1906年に川越電気鉄道(後の西武大宮線。現在は廃止)が設立される。川越電気鉄道は商人たちを脅かした川越鉄道よりも街の中心部に近い川越久保町に駅を開設。川越久保町駅から大宮駅までを結んだ。

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