もちろん、炭疽菌とSARS、インフルエンザはそれぞれ感染症の種類も異なるだろう。しかし共通していた部分もある。それこそが「パニック」だったというのだ。
未知の脅威が迫ってくれば、不安にかられるのはむしろ当然の話だといえる。しかしそれがパニックにつながった結果、クールで理性的な対応が困難になり、人々は余計な苦労をすることになったということだ。
しかもその苦労は、感染症の実被害以上の苦しみをもたらすものだった。
こうした体験から私は学習しました。感染症のリスクを扱うときは、単に患者を診断し、病原体を見つけ、その病原体を殺して治療する以上の何かが必要であると。感染症の実被害以上に問題となる「パニック」と対峙することが大事であると。
それはすなわち、「コミュニケーション」を扱うことと同義であります。
(『「感染症パニック」を防げ! リスク・コミュニケーション入門』より)
(『「感染症パニック」を防げ! リスク・コミュニケーション入門』より)
とはいえ当然ながら、パニックさえ起きなければよい、というほど単純な話ではない。また、感染症のリスクに対して鈍感なまま、リスク回避行動をまったくとらないのも問題だ。
医療の現場に欠けているもの
つまり、リスクに対してはパニックになるべきではなく、かといって不感症になってもいけないということ。重要なのはバランスであり、恐れすぎても、楽観的すぎてもよくないということだ。
だとすれば、どのくらい恐れればよいのだろうか? おかしな表現ではあるが、「適切な怖れ方」というようなものがあるのだろうか?
「恐れ」は主観です。主観に「正しい主観」とか「間違った主観」とかは存在するのでしょうか。いったい専門家は、一般の方にどういうメッセージを伝え、「どのくらい恐れろ」と言うべきなのでしょうか。
この難問に答えようとしたのが、本書『「感染症パニック」を防げ! リスク・コミュニケーション入門』です。
感染症にまつわるリスクを検討し、「どのくらい恐れろ」と言うべきか。どのようなコミュニケーションをとるべきか。感染症という専門領域と、リスク・コミュニケーションという専門領域の、両方から考えてみました。
(『「感染症パニック」を防げ! リスク・コミュニケーション入門』より)
(『「感染症パニック」を防げ! リスク・コミュニケーション入門』より)
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