元TBS・58歳新人監督の「映画」が気づかせる幸せ 55歳で未開地へ飛び込んだ男を支える縁と信念
もう1人、玉井が協力を仰いだのがミュージカル『レ・ミゼラブル』などで舞台のアカデミー賞とも言われるトニー賞を2度受賞しているイギリスの舞台演出家、ジョン・ケアードである。2011年の震災後、玉井は日本で行われたミュージカル『あしながおじさん』の演出家を務めたケアードと初めて会う。「すぐにチケットが完売する超売れっ子の演出家」である彼に惚れこんで、半年をかけて口説き落としたのだ。
つねに多くのプロジェクトを抱え、世界中を飛び回るケアードは当初、簡単にはOKを出さなかったが、最後は玉井の熱意に根負けした。実はケアード自身もアフリカ・ルワンダの難民少女を支援する里親であるフォスターペアレントだった。彼にとってもこのプロジェクトとの出会いは必然だったと言えるのかもしれない。
プロジェクトの構想を練っている頃、東京の料理屋で篠田、玉井、ケアードの3人が会食した。そこで篠田は、ケアードからこんな話を持ちかけられる。
「世界が注目する場所でやらないとダメだ」
「自分(ケアード)は玉井さんが思い描くコンサートを創る。君(篠田)はそのプロセスを映像にするんだ。そして最終的に、コンサートの映像と君の創るドキュメンタリー映画をセットにして、未来の『あしながおじさん(寄付者のことをそう呼ぶ)』にプレゼントするといい。ニュース化したいなら、世界中が注目する場所でやらないとダメだ。舞台はニューヨークのブロードウェイにしよう」
その段階では誰もがどんな舞台になるか想像もつかなかったが、「ケアードがその気になった瞬間から、きっと面白いものになるに違いないという確信があった」と篠田は語る。
2013年4月、ウガンダ首都カンパラ郊外のナンサナに位置するエイズ遺児の教育施設「レインボーハウス」で撮影はスタート。それから2年後の2015年6月、ニューヨーク・ブロードウェイのフレデリック・P・ローズホールにおけるフィナーレまで撮影は続いた。
篠田自身、この映画をつくることに迷いはあった。サラリーマンを辞める覚悟がないと、完成までこぎ着けられないと考えたからだ。違う監督を立てる案もあったが、玉井やプロジェクトをよく理解し、映像化の技術も含めて自分の思い描く映像を創り上げるには、やはり自分でやるしかないと腹をくくった。
「映像は関心喚起のきっかけにはなりえます」。篠田は言う。先進国に暮らしていれば想像もつかないほどの貧困と難病。「教育こそが貧困を救う最大の武器」という玉井の信条を伝えるには、出版・印刷物や講演などでは不十分だ。ありのままを偽りなくとらえて他者に伝えられる映像作品こそが、最も説得力を帯びる。
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