コービー・ブライアントの少し複雑な「栄光」 ジョーダン超えを本気で目指した男の光と影

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

NBA入りが決まった1996年のドラフトでは全体で13番目の指名で、指名したのはシャーロット・ホーネッツだった。しかし、ドラフトから1カ月後、ホーネッツはレイカーズと合意して、ブライアントをベテラン・センターのブラデ・ディバッツとトレードした。

このトレードを計画したのは、レイカーズの当時のゼネラルマネジャー、ジェリー・ウェストで、ウェストはブライアントの大胆不敵さと並外れた才能に魅了されていた。

ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外にあるローワー・メリオン高校の選手だったブライアントは、ドラフト前にレイカーズのオーディションに参加している。そこでは、レイカーズでディフェンスとして活躍した、当時40歳のアシスタントコーチ、マイケル・クーパーを相手に、ワン・オン・ワン(1対1)の練習などをした。

今年「殿堂入り」するのは確実

ウェストがこのときのブライアントのプレイについて、「いまのレイカーズにいる誰よりも優秀だ」とレイカーズのスタッフに語ったことがよく知られている。コービーの父親のジョー・”ジェリービーン“・ブライアントも元NBA選手で、この頃コービーは、マイケル・ジョーダンの実績を超えるという野望をあらわにしていた。

ウェストが予見した通り、ブライアントはレイカーズを立て直して栄光へと導いた。まずは、名センターでバスケットボール殿堂入りも果たしたシャキール・オニールとともに、1999-2000年のシーズン以降3年連続で、NBAでの優勝を勝ち取った。続いて、紛れもなくチームの要として、2008-2009年と2009-2010年に優勝した。

ジョーダンに挑むという気概と、批判には耳を貸さない力をもって、ブライアントは現代のプロバスケットボールにおいて、中心的かつ不滅の人物となった。2016年4月に引退するまでに、ブライアントは比類のないレガシーを築き上げ、レイカーズはブライアントの2つの背番号「8」と「24」を永久欠番とした。

ブライアントはバスケットボール殿堂入りの資格が得られる今年、殿堂入りすることが確実と見られている。レギュラーシーズン通算の得点は3万3643点で、NBAでは歴代3位の記録を打ち立てていた。しかし、亡くなる前日の1月25日に、レイカーズのレブロン・ジェームズがフィラデルフィアでブライアントの記録を破った。ブライアントは25日の夜、事故の15時間ほど前に、ジェームズの記録を祝したツイートを投稿している。

次ページひたすらに最高のプレイヤーを目指した
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事