日本人が知らない、もう1つあった「太平洋戦争」 独立から利権争いに発展してしまった悲劇
19世紀半ばのブラジルによる近隣諸国への一連の介入は内陸国家パラグアイを大いに警戒させました。パラグアイ大統領ロペスは「パラグアイを大国化し、ブラジルやアルゼンチンに操られない自存自衛の国家」を目指して対外関係を閉ざし、鎖国体制を作り男たちに軍事訓練を施し、南米で最も精強な陸軍を構築。来るべき戦争に備えました。
1863年、ブラジル政府はウルグアイ大統領ベーロに「ブランコ党による牛泥棒による被害の賠償と責任者の処罰」を求める最後通牒を送りました。ブランコ党であるベーロはパラグアイのロペスに支援を求めてパラグアイ軍の介入を求めますが、ブラジル軍はウルグアイの港を封鎖しブラジル軍をウルグアイに展開させたため、ベーロ大統領は失脚し、親ブラジル派のコロラド党フローレスがウルグアイ大統領に就任。ブランコ党の処罰と賠償金の支払いに応じたのでした。
国民の半数が死亡「パラグアイ戦争」
時は来たと、パラグアイ大統領ロペスはブラジル軍の戦線の乱れを突いて一気に攻勢をかけることを決意。1864年11月12日、パラグアイ軍はパラグアイ川を封鎖しブラジル軍を拿捕し、精強な陸軍をブラジルのマット・グロッソに侵入させました。パラグアイ戦争(三国同盟戦争)の勃発です。
パラグアイ軍はウルグアイの反ブラジル派を支援すると共に、アルゼンチンの反体制派ウルキーサに対し「クーデターを起こしアルゼンチン大統領に就き、共に戦おう」と呼びかけました。しかしウルキーサはこの求めに応じることはありませんでした。
ブラジルは仇敵のアルゼンチンのミトレ大統領とウルグアイのフローレス大統領と三国同盟を結び、1865年5月1日にパラグアイに宣戦布告しました。
パラグアイ・ウルグアイ・アルゼンチン連合軍が共にブラジルに攻め入り首都リオ・デ・ジャネイロを占領するというロペスの構想は瓦解し、逆に三国に攻め入られることになってしまいました。しかしながら、ロペスが強化したパラグアイ軍は少数精鋭で手強く、戦線も広い国土のあちこちにまたがっていたためブラジル軍は苦戦し、戦争は長期化します。
1866年に激戦の末にブラジル軍を主力とする連合軍がパラグアイ川を封鎖すると内陸国パラグアイは不利になり、4月に初めて連合軍はパラグアイ領に侵攻。パラグアイ軍は「国土防衛戦」として女子どもも含め総力で抵抗を続けましたが、1868年8月にパラグアイ防衛の最後の砦ウマイター要塞が陥落。
パラグアイ軍は総崩れとなって首都アスンシオンに退却。翌年1月5日、アスンシオンは連合軍の攻勢の前に陥落。ロペス大統領は自分に従う部下を率いて北部に逃亡し戦いを継続しましたが、翌年3月にセロ・コラーの地で壮絶に戦死しました。
パラグアイは国民の約半分が死亡するという大きすぎる犠牲を払い、社会インフラや人的資源も崩壊し、2度と強国として立ち直れないほどのダメージを受けたのでした。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら