500年続く「キリスト教同士の抗争」根深い背景 日本人があまり知らない世界史の"基本"
カトリック教会の自己改革は、ルールの厳格化と異端の排除につながり、後に社会不安が高まるに連れて「魔女狩り」が流行するに至ります。激しくなったカトリック信者の宗教的情熱は、その後の新大陸征服、そしてプロテスタントとの宗教戦争につながっていくことになるのです。
カトリックとプロテスタントの対立構造の成立
1523年ごろから宗教改革の嵐は都市から農村へと移っていき、領邦国家のレベルでも宗教改革の進展が見られるようになり、大国であるヘッセン方伯やプロイセン騎士団領が宗教改革派となります。
一方カトリックではオーストリアとバイエルン、南ドイツの司教が反ルター戦線を結成し、スイスでも保守的なウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンなどの都市も宗教改革に反対しドイツのカトリック領邦と合流。都市レベルでの同盟結成の動きが加速していきます。
1526年に開催されたシュパイアー帝国議会では宗教対立は解消せず、「諸侯は自らの判断で事態を処理すべし」という決定がなされ、諸侯の領地の宗教問題は諸侯が取り組んでよいことになりました。
これによってルター派はさらに広がり、宗教改革派の領邦は領邦国家の形成を進めますが、1529年の第2回シュパイアー帝国議会で、第1回の決定がひっくり返されたため、宗教改革派の諸侯は猛抗議します。
これが由来となり、宗教改革派は「プロテスタント(抗議する者)」と称されるようになります。こうして両派の間には埋められない溝が生まれ、それぞれ同盟を結んで対立が深まっていきました。
熱心なカトリックである皇帝カール5世は、プロテスタント諸侯・都市にルター派の弾圧を命令した「ヴォルムス勅令」の完璧な履行を求めました。プロテスタントの諸侯・都市はこれに反発し、団結して「シュマルカルデン同盟」を結成。皇帝と対決姿勢を強めました。
1541年以降、プロテスタントの精神的支えであったルターが死亡したり、仲間の離反や不祥事があったりなどして、シュマルカルデン同盟は弱体化。1546年、今がチャンスとカール5世は軍を送って同盟軍を破りました(シュマルカルデン戦争)。
しかし、それでもプロテスタント諸侯・都市を屈服させられず、失意の中カール5世は弟フェルディナントに命じてプロテスタントとカトリックの和議である「アウクスブルク宗教和議」を1555年に公布させました。これにより、「一人の支配者、一つの宗教」の原則が立てられ、諸侯は自分の臣下に対し自分の選んだ宗派を押し付けることが可能になりました。
領主と異なる宗派の者は街を出ていかざるをえなくなりましたが、領邦内の団結は増し、敵対する宗派との妥協は難しくなっていきます。
これが最大の宗教戦争である三十年戦争につながっていくのです。
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