元財務官が明かすボルカー元FRB議長の素顔 金融巨大化に警鐘を鳴らした「最後の人物」

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その後、彼はニューヨーク連銀の総裁になり、1979年にFRB議長となった。私も1985年に国際金融局長として竹下登蔵相の下でプラザ合意に立ち会い、1986年からは財務官に就任し、そうした中でボルカー氏との交流も深まっていった。

私がまだ財務官をしていた頃だったか、ドイツのハンブルクで彼と会って夕食を共にした。そのとき、彼が「プリンストン大学で一緒にゼミをやらないか」と誘ってきた。お互いずっと国際金融の仕事をしてきたから、自分たちの仕事を振り返って、世界の金融情勢や通貨制度の変遷について学生たちに話してやろうじゃないかと言う。私はとっさに「いいね」と返事した。

私は1990年に大蔵省を退官し、かつての留学先でもあるプリンストン大学で彼と一緒に1年間、週1回の共同ゼミをすることになった。夕方6時ごろから2人がそれぞれレクチャーをして、その後1~2時間、学生を含めて議論をした。そのときの講義が(1992年に出版された)『富の興亡 円とドルの歴史』という本になった。その後は個人ベースでの付き合いが続き、毎年2~3回開かれるG30で会って世界情勢や家族のことなど語り合うことも多かった。

公僕として、パブリックの視点を忘れない

ボルカーという人は、いい意味で「パブリック・サーバント」、公僕だったと思う。何か問題が起こったときに、国家や国民といった公の立場から考えると、これにどう対応すべきかということをいつも考えていた。つまり、個人の利益や好みといった視点ではなく、絶えずパブリックの視点を第一に考えて結論を出そうとしていた。

そして結論を出すと、その立場を貫くために頑強に頑張る。誰が反対しようと、踏ん張って実現しようとする。その姿勢には誠に感心するものがあった。

生活態度もぜいたくというものにはあまり縁のない、堅実な生活をしていた。例えば、ニューヨークのアパートなども決して豪華ではないし、アメリカのお金持ちのように、立派な別荘やプライベート・ジェットを持っているわけでもない。最初の奥さんが長く難病を患っていて、彼は最後の最後まで献身的に介護をしていた。

奥さんが動けないため、FRB議長をしていたときはワシントンに単身赴任で、週末には洗濯物を持ってニューヨークに戻る生活だった。私と一緒にプリンストンで教えていたときには、大学の近くの小さな一軒家に奥さんと2人で住んでいた。ほとんど彼が食事の支度をしていたのではないか。料理は好きだったようだ。

釣りも大好きだった。釣りの話になると目の色が変わった。山の奥に行ってフライフィッシングでマス釣りをしたり、グリーンランドやアイスランドでサケを釣ったり。日本に来たときも確か、鮎などを釣りに行っていたと思う。

彼は最初の奥さんが亡くなって再婚した。相手の女性は、彼がFRB議長を退任した後、ニューヨークの投資銀行(ジェームズ・D・ウォルフェンソン社)で働いていたときのアシスタント。ドイツ系の大変優秀な人だ。

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