元財務官が明かすボルカー元FRB議長の素顔 金融巨大化に警鐘を鳴らした「最後の人物」

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2019年12月8日に死去したポール・ボルカーFRB元議長(写真:AP/アフロ)

1979年から8年間にわたってアメリカの連邦準備制度理事会(FRB)議長を務め、「インフレファイター」として世界に名を知られるポール・A・ボルカー氏が2019年12月8日、92歳で死去した。

同氏は1970年代から1980年代初めにかけての2桁台のインフレに対して政策金利を20%に引き上げるなどの金融引き締め政策を行い、インフレを鎮圧した。2008年のリーマンショック後の金融危機に際しては、オバマ政権のアドバイザーとして金融機関の高リスク投資を制限する「ボルカー・ルール」の法制化に尽力した。

このボルカー氏と長年にわたり国際金融の舞台で交渉や議論を行い、個人的にも親交が深かったのが大蔵省の元財務官、行天豊雄氏(現・国際通貨研究所名誉顧問)だ。ボルカー氏が亡くなる前日、行天氏はニューヨークにあるボルカー氏の自宅に見舞いで訪れていたという。以下は行天氏の談話である。

「ポールの具合がよくない」

実はボルカー氏が亡くなった12月8日、私はニューヨークにいた。「グループ・オブ・サーティ(G30)」という世界の金融専門家が参加する国際会議がニューヨーク連邦準備銀行で開かれるため、数日前から現地に滞在していたのだ。ボルカー氏もメンバーではあるが、もう出席はしていなかった。

そのG30で私とボルカー氏の共通の友人であるアメリカ人が、「ポール(ボルカー氏)の具合がよくない。彼の奥さんが君に来てほしいと言っている」と私に伝えてくれた。それで12月7日の会議の後、すぐに奥さんに電話をし、「会いに行っていいですか」と尋ねた。

彼女は「もちろん、来てください。ただ、もう(彼は意識がなく)あなたを認識できないと思います」と言う。私はそれでも行きたいと言い、彼の住むマンハッタンのアパートへ、滞在先のホテルから雨の中を歩いて向かった。

着いたのは7日の午後6時過ぎだったが、彼はベッドに寝たきりで昏睡状態のようだった。ただ、人工呼吸器や点滴などの器具はまったく付けておらず、自然で穏やかな表情に見えた。

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