元財務官が明かすボルカー元FRB議長の素顔 金融巨大化に警鐘を鳴らした「最後の人物」
私は彼のそばへ行き、かなり大きな声で「ポール! トヨオだ」と呼んだ。すると、彼の目がパッと開いた。だが、何も見えていないのはわかった。さらに彼は、口を少し動かして、言葉にならない声を発した。何かを言いたかったのではないか。
私は彼の手を握り、もう一度声をかけると、また同じ反応があった後、再び昏睡状態に戻った。私はそれからしばらく奥さんと娘さんと話をし、彼のアパートを後にした。
交流の始まりはニクソンショックだった
翌朝、私はかつてボルカー氏と一緒に講義をしたプリンストン大学(ニュージャージー州)へ鉄道で向かった。キャンパスのそばに「ナッソー・イン」という古い宿屋があり、その中の「タップ・ルーム」という食堂で私は彼とよく食事をしていた。
壁には大学の有名な卒業生の写真が貼られており、200年以上の歴史のある大学だけにウッドロウ・ウィルソン元大統領や最高裁判事、科学者、宇宙飛行士などもいて、もちろんボルカー氏の写真もあった。近くには女優ブルック・シールズの写真もあった。私はそこで昼食をとり、ニューヨークのホテルに戻ったら、テレビで彼の死去を報道していた。それが彼との別れだった。
ボルカー氏との交流の始まりは、彼が財務次官を務めていた頃で、ちょうど「ニクソンショック」(1971年)のときだった。私はまだ財務官室長で、水田三喜男大蔵大臣の通訳をしていた。
当時、戦後のブレトンウッズ体制はもたなくなっていた。1944年に始まったこの体制の柱は、アメリカが通貨ドルの価値を金で保証していたことにある。1オンス=35ドルで保証されたドルに対して、日本を含むほかの国々は固定相場を採った(日本は1ドル=360円)。ところが、この体制の下ではアメリカの貿易赤字が拡大するため、ニクソン大統領のときにドルと金の交換を停止し、固定相場もやめた。
その頃に交渉の当事者であるボルカー氏は何回も日本に来て、水田蔵相の海外出張の際などには私も同行し、ボルカー氏と会っていた。ただ、2人の格はぜんぜん違うので、対等の関係ではなかったが、少なくとも顔見知りにはなった。
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