セカンドチャンスをものにする
社会人になり、吉田は「野球が楽しくて仕方がなかった」という。投げるたびに結果が出ることはもちろん、ボールを握れること自体がうれしかった。
「高校時代、それと大学の最初の頃はケガをよくして、全然、結果が出ず、悔しい思いばかりしていました。何不自由なく投げられるのは、本当に楽しい。だからおのずと練習に向かい、結果が出ています」
高校時代の吉田は右ヒジの負傷に悩まされ、公式戦の登板は10イニングに満たなかった。甲子園メンバーには2度選ばれたものの、ブルペンに入ることさえできず、「何もできなかった」と感じた。
日本大学では2年夏に故障し、同年秋季リーグでは登板なしに終わる。しかし、3年生になって公式戦に復帰すると、4年春には東都リーグ2部の最優秀投手に輝いた。将来性を評価され、JR東日本に入社した。
「今のままでは、プロに入っても無理だなと思っていました。自分のフォームにも限界を感じていた」
大学時代はスリークオーターから投げていたが、JR東日本の山本浩司コーチに「背が高いのだから、上から投げ下ろしたほうがいいのでは?」と指摘され、投球フォームをオーバースローに変えた。191センチの長身から投げ下ろすと、球速が146キロまでアップ。理想のフォームを地道に磨き続けることで、抜群の制球力と安定感を手に入れた。
原動力になったのが、「“セカンドチャンス”を逃すまい」という気持ちだった。吉田が強いメンタルを築いた理由は、過去の悔恨と無関係ではない。高校時代に苦しめられたケガと、正面から向かい合うことでプラスの力に変えた。
「高校のときが、いちばん悔しい時期でした。でも、あきらめずに野球を続けてよかった。もし、当時からエースとして投げていたら、たぶん、今の気持ちにはなっていなかったでしょうね。負けた悔しさより、何もできなかった悔しさのほうが強かったので……」
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