神戸への対抗心で巨大化、「姫路駅」の紆余曲折 かつてはモノレールも走った播磨の拠点都市
神戸駅―姫路駅間の鉄道計画が進まなかった理由は、兵庫県の複雑な成り立ちにある。1871年の廃藩置県で兵庫県・飾磨県・豊岡県の3県が誕生したが、行政効率化を目的にして5年後に3県は統合させられる。県庁は神戸に設置。飾磨県・豊岡県は県庁が遠くなったことに不満を抱いた。
中央から派遣されていた県令・内海忠勝は姫路の不満を鎮静化させるべく、神戸と姫路を結ぶ鉄道の建設を中央政府へ働きかけた。神戸―姫路間のアクセスが改善されれば、県庁は近くなる。内海には、そんな思惑があった。神戸を一大拠点にしていた三菱財閥や藤田財閥なども、鉄道建設によって物流が促進されてビジネスに役立つことから、鉄道計画を積極的に支援した。
神戸駅から岡山・広島を通り馬関(現・下関)まで建設することを条件に、政府は神戸以西の鉄道建設を許可した。ただし、政府は財源が枯渇していたため、三菱財閥の影響力が強い私鉄・山陽鉄道によって神戸駅―馬関駅間が建設された。山陽鉄道は1888年に姫路駅を開設。こうして、姫路は開港地・神戸や商都・大阪と鉄道で結ばれた。
県都・神戸への対抗心
しかし、神戸と直結したことを手放しで喜ぶ姫路市民はいなかった。兵庫県に組み込まれた後も、姫路市民の間には新たな県都・神戸への対抗心に並々ならぬものが残っていた。そのため、姫路では旧飾磨県復活を求める要望は絶えなかった。
山陽鉄道の開業は、飾磨県復活の芽を摘み取られる危機でもあった。だが、姫路市民の思いとは別のところで、事態は大きく動いていく。
兵庫県の生野銀山は、戦国時代から大量の銀が採掘されることで知られる。明治政府も生野銀山から採掘される銀に着目しており、生野銀山は日本初の官営鉱山に指定された。しかし、生野銀山は兵庫県の山中にあり、採掘された銀の運搬には人手と時間を要した。
明治政府はお雇い外国人に馬車道を整備させ、輸送のスピードアップを図った。さらにスピードアップを図るため、生野から積出港だった飾磨港には馬車鉄道も計画された。同計画はブラッシュアップを経て、通常の鉄道に変更。このときの計画が、播但鉄道(現・JR播但線)だった。
播但鉄道は貿易で栄える神戸に莫大な利益をもたらす。また、丹波・但馬地方の製糸業発展にも大きく寄与する。そうした事情から、神戸の実業家や丹波・但馬の製糸業関係者が播但鉄道へ多額の出資をした。
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