タブー破りまくり「三井・越後屋」のスゴイ戦略 日本のビジネスモデル史上最大級の革新だ
三井両替店にとって、公金為替からの収入はわずかでも、巨額の資金を数カ月間無利子で動かせます。そして大坂で受け取った銀貨を越後屋の京都での仕入れに使い、江戸城への納金は江戸での売上金から行うことで、低コストでの仕入れが実現しました。大量の現金(銀)を東西に動かすコストもリスクもありません。
1691年に得た「大坂御金蔵銀御為替御用」の肩書は、明治維新まで続く三井家の収益源となっただけでなく、同業他社からの妨害を静める役目も果たしてくれました。
持株会社による複数企業統治
高利の晩年の悩みは、豪商となった三井家の永続でした。事業も呉服や両替に分かれ、地域も東西に分かれる20店舗もの巨大で多様な組織を、どうやったら子々孫々遺していけるのか。結局、彼は15人の子どもたちに分割相続することはなく、みなに相当分を「割り付けておく」と結んだ遺言を遺しただけでした。一族全体で相続するって、どうすればいいのでしょう。
その難題に答えを出したのが、長子の高平でした。彼は1710年、三井の全事業の統括機関「大元方(おおもとかた)」を設置します。すべての資本や資産はこの大元方がまとめて管理し、各店へ資本金を出資します。各店は半期ごとに帳簿とともに利益の一定額を大元方に上納し、三井一族11家への報酬は大元方から支払われました。つまり今でいう「持ち株会社」をつくったのです。
三井家は江戸時代の好不況の波も乗り切り、明治維新という衝撃も生き抜いて三井財閥を形成することになります。その350年にわたる繁栄の基礎を築いたのは、三井珠宝・高利・高平たちでした。
さて、この日本ビジネス史上最大級の成功は、経営学の視点で見るといったいどんなふうに見えるのでしょうか?
この世の現実は、多くの人やモノやお金が絡んでいて、とてもとても複雑です。それらすべてを理解し動かすのは大変なので、どんどん機能分化していきました。1つの事業においても、お金のことは経理部、商品企画はマーケティング部、販売のことは営業部などなど。
でも、事業経営とは事業全体をバラバラでなく統合的に運営していくこと。そのためにはこういった機能別の視点ではなく、機能横断的な共通の事業視点が必要です。その1つが「ビジネスモデル」です。
ビジネスモデルとはビジネスを単純化したもの。ここでは究極の単純化として4つの要素でビジネスを語ることにしましょう。「ターゲット」「バリュー」「ケイパビリティ」「収益モデル」の4つです。
ビジネスとはその活動によって利益を上げる存在です。であれば、事業には必ずその商品やサービスの利用者や対価の支払者がいて、それらがその事業のターゲット(標的)となります。
なぜその商品が使われ、対価を支払ってもらえるかといえば、それは価値があるからです。企業向けだと求められる価値は割と明確で、スペック(性能)、品質、価格、納期、サービス(QCDS)などで測れます。しかし消費者向けでは、「楽しい」「うれしい」「格好いい」も価値になるので、とても曖昧ですが多様で面白い世界です。
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