タブー破りまくり「三井・越後屋」のスゴイ戦略 日本のビジネスモデル史上最大級の革新だ
既存の呉服屋は客先に出向いて売る外商が中心でしたが、それでは多くの顧客を効率的にさばくことはできませんし、さまざまな反物の種類に通じたベテラン従業員しか対応できません。
越後屋は訪問型の外商ではなく、来店型の店前売りを採用します。そのためにケイパビリティとして大型店舗が必要になりましたが、そのお陰で店員の専門特化が可能になりました。反物種類ごとの役割分担である「一人一色(いっしき)」を採用したことで、人材育成は逆に簡単になり、事業の拡大に合わせた早期育成ができました。また、イージーメイド提供のためには、ケイパビリティとして縫製職人も雇い入れました。
競合はまねしにくかった
越後屋の呉服業での成功は、「現金掛け値なし」に代表されるバリューの変革だけで成し遂げられたわけではありません。ターゲットの拡大、薄利多売の収益モデルの確立、大型店舗と一人一色などのケイパビリティによって支えられたものでした。
かつ、それらビジネスモデルの4要素は互いに深くつながっていて、1つだけをまねすることはできないものでした。競合していた呉服店がいきなり「現金掛け値なし」とうたったら(バリュー)、ツケ払いがうれしかった既存の大名・武士たちは離反してしまう(ターゲット)でしょう。
店構えだけ大きくしても(ケイパビリティ)、町人たちにそこにいっぱい来てもらうためには、切り売り(バリュー)や薄利多売の仕組み(収益モデル)が不可欠です。それに、店前売りにしてしまったら、今いるベテラン従業員たちは要らなくなってしまいます。リストラなんて大変です。
越後屋がつくり上げた新しいビジネスモデルには、何の秘密もありませんでした。でも、全部が変わったがゆえに、競合には模倣が極めて困難だったのです。
高利はさらに、両替商という別事業のターゲットとして、大坂城を射止めることに成功します。江戸で成功した呉服屋とは逆の、西から東へのお金の流れを手に入れるためでした。これにより、2つの事業を組み合わせたときの収益モデルに大いにプラスとなりました。
その高利亡き後、長子・高平は2つの事業が組み合わさった巨大ビジネスを統治するための新たなケイパビリティを導入します。それが、大元方という一種の持株会社でした。この新しい収益モデル(大坂城の公金為替)、新しいケイパビリティ(大元方)を加えた大ビジネスモデルの構築が、長期の繁栄を三井家にもたらしました。
「現金掛け値なし」はただの安売り戦略ではありません。三井家は高利・高平が、旧来の「呉服店」のビジネスモデルをすべて変えたからこそ、その安値を維持でき、競合にはまねされなかったのです。
三井家の革新性は明治維新を乗り切り、日本で初めての民間銀行設立、そして三井財閥へとつながりました。
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