3年生になると、母親の受験熱は徐々に上がり始めていく。3年生で日能研に入塾、これだけでは足らないと、栄光ゼミナールでは国語を習い、算数は個別指導の教室へ。加えて家庭教師も雇い、万全の体制が整えられた。
「目指すは東大!」と意気込む母親。もはやダブル通塾どころではない。やれることはすべてやってやろうという、母親の意思の強さに剛少年は歯向かうことなどできなかった。
「友達と遊んだ記憶がないんです。野球が好きで、小1で地域の野球チームに入ったのですが、小4で野球は辞めさせられました。学校が終わると、とにかく毎日どこかの塾に行く生活で、勉強しかしていなかった」
これだけ勉強を重ねても、成績は親の期待までは届かず、伸び悩んだ。日能研ではつねに上から2番目のクラス。偏差値も50台から上がらない。1番上のクラスにいくことは一度もないまま受験の年を迎える。
名門私立、武蔵を第1志望に
志望校を決めたのは、ほぼ母親だ。目指すは東大、そこに向けての道のりを逆算し、東大に多くの入学者を輩出している学校に受かることが目標として立てられた。敏子さんのお眼鏡にかなったのは名門私立、武蔵。見学に行き、第1志望とするようにと母親は剛さんに強く勧めた。
「見学に行ったのは武蔵だけだったと思います。第2志望、第3志望は偏差値表を見ながら“どこにする?”と話し合って決めた」という言葉のとおり、ほかの学校は名前くらいしか知らなかった。
高知の土佐塾、城北、都内の難関私立大学付属と、男子校ばかりを受験したが、当時は志望校が男子校なのかどうかすら、頭に入っていなかったという。
「今考えると、母親が男子校に入れたかったのかな?」。男子校志望だったのか?というこちらの質問を受けて、はじめて気がついたようだった。遊びたい気持ちを抑えて勉強と向き合う日々。だが、幼い頃から「これが普通だった」という剛少年は、むしろ塾のない生活など考えられなかったと語る。
「家庭教師は塾のフォローのために雇われていたので、家庭教師と勉強してから塾に行くという曜日もありました」
これだけの努力をしたにもかかわらず、第1志望の武蔵は不合格。入学を希望していない土佐塾と、名前しか見ていなかった滑り止めの学校のみの合格となった。
落胆したのは母親だ。東大にすんなり届く中高一貫校に入れることを目標に手を打ってきた中学受験の結末は、母親にとってあまりにも大きなショックだったのだろう。名門私立の合格を聞いても敏子さんから「おめでとう」の言葉はなかった。
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