下記のグラフは、白川郷の観光客数の年次推移である。世界遺産登録の前後で伸びた観光客は、白川郷ICの開業後もさらに伸び続け、直近の数字でも年間176万人余りという堂々たる大観光地となっている。最近の数字を押し上げているのはインバウンド(外国人訪日客)で、実際白川郷までのバスにも、中国系と欧米系の観光客の姿があった。バスターミナルの待合室にいた観光客の半数以上も外国人と見えた。
インバウンドの多くは高速バスを利用
近年のインバウンドは個人客が多く、一部レンタカーの利用者もあろうが、こうした観光客の多くが高速バスを利用している。
現在、白川郷へは筆者が利用した名古屋から一日4往復の便のほか、岐阜、飛騨高山、富山、金沢へも高速バスが数往復ずつ結んでおり、さらに一部高速道路を利用して、五箇山経由で高岡とを結ぶ「世界遺産バス」も含めると、高速道路のおかげで発達した実に多くのバス路線によって観光客の足が支えられているのがわかる。
ちなみに、飛騨高山もかつてはJR高山線が観光客の主要なアクセス手段であったが、やはり東海北陸道と中部縦貫道でのアクセスが飛躍的に向上し、名古屋からの高速バスも、JRの特急ワイドビューひだ号の10往復(名古屋~高山間)よりも多い12往復の運行となっている。
土曜日だったせいもあってか、荻町の集落は静かな山村のたたずまいとは別世界の賑わいを見せていた。五箇山の合掌造り集落のうち世界遺産となっている菅沼と相倉も、やはり外国人を中心に観光客の姿が絶えず、世界遺産効果と高速道路効果が相まって、30年ほど前の村人がもしこの様子を見たら、腰を抜かすほど驚くだろうというほどの変容ぶりである。
江戸中期から昭和のはじめにかけて、合掌造りの2階よりも上層部では養蚕が盛んに行われ、生産された繭は城端(富山県南砺市)の製糸工場や織物工場で生糸や絹製品となり、江戸や京都に運ばれていた。
養蚕の灯が消えて50有余年、山深い地から人馬で物資を運んでいた時代が夢のように、今では五箇山から砺波平野まで高速道路でわずか10分足らずで行くことができる。
交通の発達やインターネットの普及による情報の拡散により、かつて秘境と呼ばれた山村は、今や日本の古き良き暮らしと風景を外国人に手軽に味わってもらうショールームの役割を果たしている。その陰に高速道路が大きな役割を果たしていることを実感した6年ぶりの白川郷であった。
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