34歳「地図の新しい見方」を探求する男の仕事観 幼児期の原体験が「空想地図」につながった

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文学部から経済学部に編入した結果、必修単位が足りなくなり1年間留年することになった。

「国立大学に行けば学費が安くなると親には言っていたんですが、結局留年したので変わらなくなりました。

『すいません』と謝りました」

大学を卒業し、2009年に23歳で社会に出た。

「僕は『最大の努力をして、最上の結果を求める』よりも『最小の負担で、最低限マシな結果を得る』ほうが好きなんです。昔はやった言葉で言えば、省エネですね。

就職試験もとても効率よく進め、3カ月で決まりました」

今和泉さんは、IT系のビジネスツールを販売する会社に就職した。

市民権を剥奪されないくらいの最低限の仕事を

役回りは営業だった。ビジネス需要のあるところに足を運んで契約を取らなければならない。

「営業は自分には向いていませんでした。やる気がいっさい湧いてこなかったですね。市民権を剥奪されないくらいの最低限の仕事だけするよう心がけました」

ただ当初は会社を辞めようとは思っていなかったという。

「当時は辞めたとこで食えるはずがないと思ってました。『独立起業するつもりなんじゃない?』って言われることもありましたが、まったくその気はありませんでした。むしろそんなことを言われると、俺を唆してはめるつもりか?と怒ってました」

その頃もまだ空想地図は描いていた。ただそれが価値のあるものだとは思っていなかった。

「空想地図の価値を自分で認めてなかったので、もちろんそれでお金を稼ぐことができるなんて思ってなかったです。商売ができない以上、勤め人をするしかないと思ってました。ただ結果的には2年で会社を辞めました」

上司との相性が悪かったのもあるし、入社してきた部下を教育しなければならないのも辞めた理由の1つだ。後輩を育てるためには、彼らに『必死に働く自分』を見せなければならない。それは嫌だ。

「給料はいい会社だったので、勤め続けていたら食えます。ただ30歳になって結局辞めるなら、25歳で辞めたほうが安定してるんじゃないか?と思いました。つまり安定のために合理的に会社を辞めました」

就職活動の頃は『独立起業』というのを嫌っていた。『独立起業』を勧められると、まるでちゃんとした就職ができないと言われているような気がしたのだ。

ただ、嫌悪感だけでまったく考えに入れなかったのは、極端だったかもしれないとそのときに思った。

「ただそれにしたって、いきなり独立した収入だけで稼いでいくのは不安です。だからアルバイトと自営業を同時にやってみようと思いました。それで自営業が花開けばよいし、ダメだったら『自営業は向いてなかったね』と諦めようと思いました。ハイブリッドワーカーと名付けました」

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