日本メディアの「黒人」描写がかなり残念な理由 2つのCMに見る黒人の位置づけ
少数派である黒人のアメリカ人として生まれ育った私は、だいぶ前に、黒人がいつどのようにテレビCMで使われているかに注意を払う習慣を身に付けた。なぜ? 悲しいことに、メディアを視聴している人々の大多数は少数派の人と対話する機会がなければ、そういう機会を作ろうともしないからだ。
従って、多くの人は少数派に関する情報をメディアに依存しており、映画やテレビ番組、ニュース、CMで見る虚構のキャラクター(または解釈や推察)が少数派についてアイデアを与えてくれると信じ、このイメージを現実の人々にあてはめている。
「2組の目」でメディアを見ている
こうした中、筆者は少なくとも「2組の目」を通してメディアを見る習慣を身に付けた(他の少数民族も同様なのではないだろうか)。 特に黒人が描かれているメディアについては。 1組の目は、そのCMが売ろうというアイデアや商品と、彼らが採用しているアピール方法に注目する。もう1組の目、私の「黒目」は、「黒さ」(あるいはその他の少数派の特徴)がどのように表現されているかに焦点を当てている。
この習慣はパラノイアや単なる娯楽ではない。メディアにおける少数民族に関する表現は、多くの黒人の生活の質に直接的かつ間接的な影響を与えているのだ。これはマジョリティに属する人々が認識していない、あるいは考慮していないものだろう。
最も人気のあるメディアは多数派の制作者たちが中心となって作っている。彼らはブランド、イメージ、そしてアイデアを人々の心の中に埋め込むことに長けている。そして私たち消費者は、それを意識しているかどうかにかかわらず、こうしたブランドやイメージ、そして商品を消費しているのだ。
日本のメディアも例外ではない。
その好例として、私は昨年末、地下鉄に乗車中、日本人学生を指導する黒人女性の出演する日本の英会話学校GabaのCMを見た。黒人が出演するCMを見るのは初めてではないが、これほどよくできたものを見たのは初めてだった。
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