不思議なことに「お疲れ様でした」も「了解しました」も、何気なく使っていたときは何も問題がないと思っていたのに、「これが失礼だ」という説を聞いた瞬間に、「そんなものか」と簡単に受け入れて、言い換えるようになる。そして、それ以来、他人が使うと、「間違っているのに、なぜ気づかないのか」などと腹立たしくなり、自分が「マナーポリス」化してしまうところがある。
5月13日には、京都の銭湯の店主が、初めて銭湯を利用する客や若者のマナー違反にきつい言葉をかけたりしかりつける常連客に対し、「優しく注意してほしい」と掲示した張り紙がTwitter上で拡散している、という京都新聞の記事が話題になった。張り紙は「浴場ルールを理解されていない人もいるが、それは悪意はなく、経験が少ないだけであり、きつい言い方で叱るのではなく、優しく注意するか、番台に声をかけてほしい」といった趣旨で、行き過ぎた「マナーポリス」にやんわりとくぎを刺す内容だった。
「マナーポリス」は、「人に迷惑をかけることは大罪である」という日本人独特の考え方の延長線上にあるとも考えられるが、自分がかけているかもしれない迷惑は棚の上にあげて、「他人の迷惑は絶対に看過できず、厳しく罰するべきである」という狭量さ、非寛容性を帯びている。
欧米の教育では、「正解」といったものはあまりない。自分なりに問いを立て、解を見つけるプロセスが教育だが、日本では、つねに「正解」というものがあり、生徒はその「正解」を習い、覚えるのが教育である。だから、自分から「正解」を作り出すのではなく、与えられたい。そういった意味で、日本は「マナー」という「正解」が大好きで、妄信するきらいがある。
また、失敗してもいいから、新しいことにトライしようという「加点主義」というよりは、間違いや失敗を極端に恐れる「減点主義」の下では、「マナー」というプロトコールに1から10まで従っておけば、失点はないし、マネをしておけば、問題はないという計算も働く。
非合法的マナーの強要が「常識」になっている不条理
そして、その「正解」に従おうとしない人を排除しようとする「ムラ社会」的メンタリティーが「マナーポリス」の跋扈(ばっこ)を招いている。
多くの「マナー」が、日本独特のタテ社会の常識の下に培われたものだ。目上、目下という順列を守るための規則集という側面もある。それが文化であり、慣習であり、伝統であるとされる場合、打ち破るのは極めて難しい。そうした「旧説」がアップデートされないままに、「新説」まで加わって、合理性もなく、説明することもできない「ゴーストルール」が蓄積されていく。
「マナー」の怖さは、知っている者がエラく、知らない人は常識がないと単純化し、遊びも余白も自分なりの解釈も許されないところにあり、それが時に、排他性に結びつくところではないだろうか。本来は相手が不快に思ったり感じたりしないようにするための行儀・作法という意味だが、その決まり事は国や時代、人などによってまったく異なるわけで、「真実」とも「常識」とも違う。
言葉もマナーも時代に合わせて進化する。1ミリの隙も許されない、根拠のない、非合理的マナーの強要は思考力も創造性も奪うものでしかない。
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