「移民=労働者」の固定観念は捨てるべきだ 「外国人」「移民」ラベルが独り歩きの日本
――望月さんは、どうしてそういう想像力を働かせることができるのか。そもそも、なぜ移民の問題に取り組もうと思ったのか。東京大学大学院でミシェル・フーコーの自由主義論を研究し、経済産業省からグーグルなどを経て、たどり着いたのが日本の「移民」事情を発信するウェブマガジンの編集長。きっかけとして何か、自分の「移民性」のようなものを感じるなどの原体験があったのか。
「あった」って言えれば、格好いいんですけどね。「かつて......」、みたいな。あんまりないんですよね、僕それ。本当にない。実際のところ、いつもそこの語りを求められることに難しさを感じている。......いや、ないです。
――移民をめぐる問題について取材を始めてみたら、興味を持ったということ? 単純に、もっと知りたくなったとか。
うーん、なんですかね。うーーーん(悩む)。
先ほど話した「移民って、全員こうだよね」というステレオタイプみたいなものって、端的に言って間違っているじゃないですか。正しい情報ではないというか。「正しく」、というと語弊があるのだが、僕は「ちゃんと分かりたい」というのは常にある。
ちゃんと理解したい、という気持ちが何事に対してもあって、ちゃんと理解しようと思ったときに、例えば勉強しようと思うときって、それこそ統計や制度を勉強するとか客観的なデータや情報を見ていくというイメージだと思うのだが、僕の中ではそれだけではない。
それぞれの人が、そのときこういう風に思って、だからこうなっているのかなとか、あのときこういう考えに陥ったからこうなっちゃったのかなとか、そういう主観性みたいなものも、究極的には知り得ないのだが、「ちゃんと分かる」ということの一部としてあると思っている。
貧しい状況の人が、なんでお金がないのに無駄遣いしてしまったのかとか、パチンコで全部使っちゃったとか、それを「貧困でバカで自己責任だ」みたいな捉え方は、簡単ではあったとしても「正しく分かっている」ということではないと強く感じている。
なぜ今、目の前にいるこの人が自分で自分を追い込むようなことをしてしまったのかということを、ちゃんと分かろうとすると、こう......想像せざるを得なくなる。本当にお金がないということ自体は経験したこともあるが、自分には、お金がないのにパチンコに全部突っ込んじゃったという経験はないので。
でもある特定の経験がないから分からない、何も理解できないということでもないと思う。なくても完全に分かりますと言うつもりももちろんないけれど、当事者ではなくても想像することはできる。想像は常に間違っているかもしれないけれど、想像を諦めてとりあえずステレオタイプでよしとするよりは、いい態度だと思う。