「移民=労働者」の固定観念は捨てるべきだ 「外国人」「移民」ラベルが独り歩きの日本
とても重要なのは、「日本人」と「外国人」という別々の存在がいるということではなく、この社会に長く暮らしていく人という意味ではどちらも同じだと考えることだ。
例えば、日本語ができないから仕事のレベルが上がらないとか給料が上がらないというのは、基礎的な権利の部分が剥奪されているのと変わらない。機会に対するアクセスがないという状況だ。
日本人に対しては、そこの平等性を担保すべく公教育を提供して15歳までみんなで勉強する。僕らもみんな、国語という形で日本語を教わってきた。外国人だけが日本語を勉強するわけではなくて、日本人も日本語を勉強して日本の労働市場の中で「ヨーイドン」でスタートを切るという、一応そういうフィクションになっている。
これは大事なフィクションだ。だが外国人に対しては、生活の中で自分でどうにかしてくれという形になっていて、そういう機会を実質的な形では保障されずにずっと暮らしている人たちがいる。
外国人の新規受け入れは止めてもいいと思っている
――外国人に日本語を学ぶ機会を提供し、ゆくゆくは外国人が日本人と同じ労働市場に入ってくる。そこを脅威に感じる人もいるかもしれない。
重要なのは、外国人の新規の受け入れをしない、縮小する選択肢もあるということだ。もちろん、今すでに日本で暮らしている人たちに対しては、日本人と同じように人権保障を絶対にしないといけないし、今は出来ていない部分があるのでしっかりやりましょうと思う。現在の日本では、すでに270万人以上の外国人が暮らしている。
だが新規の受け入れというのは、難民や家族の呼び寄せでない限り、縮小や停止をしてもいいと僕は思っている。母国で人権侵害に遭い難民として逃れてきた、という方たちについては絶対に受け入れないといけないが、例えば技能実習についてはやめるという選択肢があると思っている。
技能実習に限らず、外国人を労働者として新規に受け入れることについては、縮小したりやめるという選択肢はある。逆に言うと、受け入れたなら受け入れたなりのことをしなければならないという話だ。自分で受け入れておいて、受け入れるという選択をしておきながら、労働市場に入ってきたら競争が起きて嫌だというのは、何を言っているんだとなる。じゃあそもそも受け入れるなよ、という話だ。
労働市場の中で競争が起きているというのは別に外国人と日本人の間だけで起きているわけではなくて、国籍に関係なく人間と人間の間で起きている。例えば、2人の日本人が一緒に大学を卒業して、友達は行きたい企業に行けて自分は行けなかった、ということもあるだろう。でもだからといって、(日本人の競争相手)全員を排斥していけるわけがない。「外国人」とか「移民」というラベルが、目を曇らせている部分もあると思う。
「あとがき」にも書いたのだが、そもそも自分の中には「移民」という言葉を使うことに対するアンビバレントな気持ちというのがある。
このテーマは日本の中で過小評価されているので、しっかり知ってほしい、考えてほしいという思いもあるけれど、同時に「移民」という言葉や「外国人」というラベルみたいなものが独り歩きすると、本当はひとりひとり300万人近くの人がいるのに、「外国人」がいるんでしょ、「移民」がこうなんでしょ、という風に語られてしまうリスクもある。それは怖いなと思っている。
「移民」や「外国人」に自分の仕事が奪われるという、いろいろなものを省略しすぎている考え方にはできるだけ反論できるように、ひとつひとつの事例を伝えるルポみたいな作業もすごく重要だと思っている。だって、ひとりの「ナカシマ・ドゥラン」さん(編集部注:ニューズウィーク日本版2018年12月11日号「移民の歌」特集の望月さん執筆のルポルタージュで取材した在日28年の日系ペルー人)が目の前にいたら、この人に仕事を奪われる、とは思わないはず。