当然、 日本では不良品の発生が1万個に一つでても、問題になる。だが、中国では百個に一つ不良品が出ても、仕方がないと判断するケースが少なくない。
ここまで違うのだから、日本企業が中国企業に技術移転する場合、相手の技術者にいくら説明しても、相手が理解できないケースが少なくないのだ。中国は大国ではあるが、いざ現場に出ると「大男、総身に知恵は回りかね」的な部分が出てくる、と私の友人は指摘するのである。
過剰気味の日本と、おおざっぱな中国の相性は良い
この日本と中国の差は、和食という料理でたとえると、よりわかりやすいかもしれない。日本での技術の肝とは、いわば「料理の隠し味」のような、センスがないと話にならない。つまり、微妙な和食の味が判るには、「舌」が肥えていないと判らないように、「技術センス」がないと、技術を移転することも無理なのだ。先端未踏産業には「すり合わせ技術」が不可欠である。最適化するための「匠の技」が日本人の持ち味ということだ。
日本人は、未踏の技術を極めるためには、一見無駄にも見えるようなプロセスや「匠の技」を大切にする。いわば、日本人研究者は感性を大事にする。面白いのは、料理の現場でも、前述の技術者の話との共通性があるのだ。京都などの一流の割烹料亭では、新米の料理人は、お皿などの器を何度も洗わされることはめずらしくない。
普通なら二回も洗えば充分なのに、五回以上も洗わなければならないこともあると聞いた。さらにいうと、これは一種の心の修行であり、仏僧が寺の廊下を何度も磨くように掃除するのと似ている。日本人は、何事も「道」を追求することから始まるのだ。
いつのまにか日本の礼賛のようになってしまったが、今回のコラムで言いたかったことは、そうではない。実はこうしたアプローチをしていると、日本の品質水準は、しばしばオーバースペック(過剰品質)になり、いつのまにか「ガラパゴス」などと呼ばれ、一生懸命やったつもりが、結局はものにならないで埋もれてしまうケースも少なくないのだ。
一方で、中国は確かに現場を軽んじる傾向があり、日本との差や考え方が直ちに縮まるわけではない。だが、一方で、中国は大きな流れを常に大事にする。これは日本人にともすれば不足しているものである。要するに大事なことは「着眼大局、着手小局」ということだ。中国の良さは常に大きな流れを大切にするが、現場を軽んじる傾向がある。逆に日本の良さは細やかな現場力が発揮するが、大きな流れを見失うことがある。
日中両国は、いま深刻な事態に直面しているのかもしれない。だが、少なくとも、技術や現場を考えていく限りでは、お互いの良い部分を活かすことで、補完関係を築けるのではないだろうか?
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら