沖縄の若者が「戦後世代」との間に見る高い壁 分断と歴史、葛藤の島でもがく若者たち(2)
それでも彼は繰り返し訪ねて行った。彼の得意な三線(さんしん=弦楽器の一種)を持ち込んで、喜納昌吉が作詞・作曲した「花~すべての人の心に花を~」を歌ったこともある。
「君、なかなかいいね」やがてリーダーも認めてくれるようになった。
政治的な関心が薄かった彼が、辺野古に至ったのには、ウチナーンチュ(沖縄県民)ならではの個人的な体験があった。
18歳の時から、米軍基地のバーで働いていた。当然、米兵にも友だちができる。貧しいゆえに志願してきた兵士が多いことに驚く。酒を飲みに行ったり、踊ったりする仲間もできたが、沖縄滞在中に人が変わってしまうことがある。何カ月にもわたる船上での訓練を終えて帰ってくると、誘っても外へ出てこない。外出しても座り込んで頭を抱えたまま、酒浸りになっている友人を何人も見てきた。明らかに心を病んでいる。
「彼らも被害者なのかもしれない」と思った。
2014年、大学2年生のときに休学して全国を巡る旅に出た。北海道から九州まで、三線を抱えて原発や米軍基地を抱える地域をリストアップして、ヒッチハイクで訪ね歩いた。
青森県の三沢基地では偶然知り合った自衛官の自宅に5~6回も泊めてもらった。原子燃料サイクル施設を抱える青森県六ケ所村には、補助金で立てた立派な建物やクーラーのついたバス停まであった。豪華な箱ものが立つ一方、外に出れば人通りがほとんどない。不満を抱えながら賛成・反対で分断されている住民。その構造は、沖縄を見ているようで背筋が凍る思いがした。福島県のゲストハウスで知り合った人には、「沖縄は基地の代わりに、多額の補助金をもらっているじゃないか」と揶揄された。猛然と反論をして、気まずくなってしまった。
対立を避けようと、考えることを放棄
原発や米軍基地を抱える地域を巡ってわかったのは、分断された人々の闇と光だ。だが、どうしたらよいかの答えを、誰も持っていない。
ひるがえって沖縄。政治によって分断された社会は、言葉が先鋭化する一方で、若者は対立することを恐れたり、面倒くさくなって考えることを放棄してしまったりしている。
「みんな、考えなきゃいけないとわかってはいるけど、いまの沖縄、コミュニケーションをとること自体がやりづらい。でも、動いても全然変わらないという意識が嫌で、いま、オレ、もがいている。第3の選択肢を模索して」
第3の選択肢――。彼は、その言葉を何度も使う。
私などは、政治によって分断された社会は、政治によって取り戻すしかないと思うのだが、彼は基地に「賛成」「反対」を超えて新たな方向を模索するためのツールを「文化」に求めた。全国行脚のときに知り合った人と議論で対立しても、抱えた三線を弾き始めると理解し合える雰囲気が生まれてくる。辺野古のゲート前で鍋パーティーを開いて踊り始めたのも、三線で歌ったのも、文化の前では敵も味方もないからだ。
彼はいま、辺野古の海が見渡せる対岸に土地を借りて「ムラ」を運営している。基地に反対とか、容認とかの議論を超えて、対立のない社会を作るために第3の選択肢を模索するためのスペースだ。
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