そして後半では、恒例である、私の半生の振り返りの続きを参りましょう。
前回のコラムでは近鉄バファローズが、念願のリーグ優勝を果たしたところまででした。
2001年はリーグ優勝を経験し、個人的にも最高の成績を収めましたが、翌2002年は開幕からいきなり打撃不振に陥りました。
その1つの要因として、オープン戦終盤に自打球が右足を直撃し、その影響で蜂窩織炎(ほうかしきえん)を開幕直後に発症してしまった、ということがあります。
これ、めちゃくちゃ痛いんですよ(涙)。もしかしたら読者諸兄の中にも心当たりのある方がいらっしゃるかもしれませんが、あの、悪名高き通風に似た痛みです。発症したほうの右足を、地面に着けることができないほど!
前年、外野手のレギュラーとして定着し、この年も中心選手としての期待をされていた私は、チームの計らいで登録抹消はせずに、試合に欠場しながら通院での治療を受けることになりました。抗生物質の入った点滴を打つ毎日……春先は大変な目に遭ったと思い出します。
けが自体はひと月程度で完治したのですが、シーズンの入り口につまずくと、なかなか取り返すのがしんどくなってしまうんですよね……。
この年にしみじみ感じたのですが、プロ野球選手は下半身が命! いや、変な意味ではなくて(笑)!
100%の力で“走れない”ということは、プレーにもかなりの影響を及ぼすという基本の“き”を痛感しました。これ、プロ野球だけでなく、アスリート全般にも言えることだと思います。
2003年には選手会長に就任
チームはこの年2位でしたが、このように私自身にとっては不本意なシーズンでした。前年よりも成績をかなり落としてしまい、レギュラーとして非常に責任を感じる結果となりました。
翌2003年、前年を教訓にし、復活を懸けたシーズンで、私は選手会長に任命されました。2002年まで選手会長を務められた大塚晶文投手(当時)が、大リーグ挑戦のため自由契約となり近鉄を退団されたために、副会長であった私が選手会長を引き受ける羽目に(!)なったのです。
今だから言えますが、決して進んで引き受けた、と言うわけではないのです。もちろん名誉なことですよ! 誰もがなれるというポジションではないというのも、重々承知です。
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