甲子園後も「U18」の活躍に注目が集まるワケ このワクワクは10月のドラフト会議まで継続

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さて、ここからは恒例となりました、私の野球人生の振り返りをさせてください。

プロ5年目の2001年は、私がプロ野球人生で初めて、リーグ優勝を経験した年でした。

その年、開幕戦のオープン戦終盤。捕手としてレギュラーを目指していた私にとって、いきなり、野球人生のターニングポイントとなる出来事があったのです。

外野手転向でした。

開幕前の練習試合やオープン戦で、打撃の結果はある程度出してはいましたが、捕手としては致命的な、盗塁が刺せないという技術的な問題を抱えてしまっていたのです。そこで、当時の監督であった梨田昌孝氏から監督室に呼ばれ、「捕手はしんどいやろ? 打撃に集中するために外野手に転向してみないか?」と言われました。

もちろん打撃は好きでしたけど、捕手として大成するほうがプロ野球界に長くいられると思っていた私は、悩みました。

しかしレギュラーとして、一試合でも一打席でも多く試合に出たかったですし、当時、同球団内での捕手としてのライバルは、的山氏と古久保氏。捕手としての経験もあり、スローイングも安定していた両選手には、守備面では勝てないかな、とも感じていたので、熟考の末、最終的には捕手を辞め、外野手になる決断をしたのです。

結果、外野手転向1年目の私は、開幕から打撃絶好調(喜)!

開幕戦で逆転3ランホームランを放つことからスタートし、その後も水を得た魚のように打ちまくりました(笑)。

打撃に集中できるようになれたのは大きかった

やはり守備面において、捕手というのはゲームの行方を直接握る重要なポジションであり、多大なプレッシャーを抱えます。体力的にももちろんですが、心的プレッシャーも相当なものです。その圧力から解放され、打撃に集中できるようになれたというのは、やはり大きかった。

この年の私の得点圏打率はリーグトップの4割1分7厘。私のキャリアの中でも自己最高の打率(3割2分)・打点(95)を残し、唯一のタイトルであるベストナインを受賞するほどの活躍ができたのです。

そして、私の打撃もさることながら、チーム全体も打ちまくった。
チーム防御率は5点近くありましたが(今思い返してもこんな防御率で優勝できるなんてありえない(笑))、当時“いてまえ打線”と呼ばれた強力打線(チーム打率2割8分、211本塁打、770得点)は無敵でした。

チームはまさに猛牛のごとく首位を突き進み、2001年9月26日、大阪ドームでのオリックス戦、北川選手の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランで12年ぶりのリーグ優勝を果たしました。

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