朋世さんは母親からも虐待を受けてきました。幼い頃は、母親も朋世さんに暴力を振るっていたのですが、成長してからは主に、精神的、経済的なネグレクトがあったのです。
母親の行動は、朋世さんにとっては大変不思議なものでした。家の中では夫によるDVの被害者であり、また夫が子どもに振るう暴力を止めようともしないのに、外ではそれは熱心に「人助け」をしていたのです。
「地域ボランティアなどを精力的にやるタイプだったんです。障害者の作業所や介護施設などで働きながら、いろいろな活動をしていた。それこそ、虐待をされていた子を家から逃がすため、引っ越しのトラックを手配したり、安い物件を見つけたり、手助けしてあげたこともあります。
なのになぜ、それをわが家には適用しないのか? なぜ私を守り、助けようとしてくれないのか。おかしいなぁ、と思っていました。たぶん家の中の問題に向き合うよりも、外で善いことをして褒められているほうが、ラクだし楽しかったんだろうな、と思います。家族を捨てて新興宗教にのめり込む人たちと、同じような感じでしょうか」
父親は、妻の外での活動が気に入りませんでした。母親はよく朋世さんを連れ歩いていたのですが、帰りが遅くなると父親の機嫌が余計に悪くなるため、朋世さんはいつも「早く帰ろう」と母親を急かしていたそう。
「でも、周りの大人たちは、母親が家庭内の問題をほったらかして外の活動をしていることなどまったく知らないわけです。だから私はたぶん『あんないいお母さんなのに(勝手な子)』と思われていたと思います(苦笑)」
母親に連れ歩かれたことで唯一よかったと思うのは、いろんな変わった大人たちと話をできたこと。朋世さんはそこで、「家と学校以外の大人」を知ることができたといいます。
「いじめ」を「ケンカ」だと思ってやり返していた
日本の学校も、朋世さんにとって決して居心地のいい場所ではありませんでした。
小学校の途中まで通っていた韓国学校(韓国籍の子どもが通える学校で、全国に6校ある)は、韓国と日本を短期で行き来する家庭の子どもがほとんどだったため、クラスのメンバーは頻繁に入れ替わり、友だちグループも存在しませんでした。そのため「風通しがよくて、ものすごく居心地がよかった」のです。しかし、その後に転校した日本の小学校は、まったく様子が異なっていました。
「私が生まれたときは、(ハーフの場合)父方の国籍しかとれなかったんですけれど、小学校に入った頃に母方の国籍もとれるようになって、私も4年生のときに国籍を変えました。それで韓国学校から日本の学校に転校したんですけれど、そうしたら環境が違いすぎて。
韓国学校だと、いじめがない代わりにケンカになるんですよ。殴り合いのケンカもしょっちゅうで、先生も『いいから、外でやれ』みたいな。みんな遠慮しないで、思ったこともバンバン言う。
日本の学校に行ってそのまま振る舞っていたら、もう、すごく嫌われて。いじめられたとき、私は『ケンカだ』と思って、めちゃくちゃやり返していたんです。そうしたら、いじめは止まったんですが、完全に『あいつはヤバい』という扱いになりましたね」
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