ただし、声が屹立して歌唱力が抜群だったら歌手として必ず成功するのか? と問われれば、答えはノーです。洋の東西を問わず、歌は下手でも商業的に売れてる歌手は多数います。聴衆の心をつかむのは、単に歌がうまいということとは別の何かが介在しています。ここが音楽の不思議です。その何かをいかに自分のものとするのか? それが本質です。
アレサ・フランクリンは、1961年、アルバム『アレサ・ウィズ・ザ・レイ・ブライアント・コンボ』でコロムビアからデビューします。これには、ベニー・グッドマンやビリー・ホリデイやボブ・ディランを発掘した伝説のプロデューサー、ジョン・ハモンドが深く関わっていました。将来を嘱望された大型新人だったのです。
デビュー盤のA面1曲目に収録の「ウォント・ビー・ロング」は全米7位と健闘しました。ただ、その後が続きません。アレサの実力は十分ですから、コロムビア側の意向でジャズ、ゴスペル、R&Bとさまざまな路線を試みます。白人層をターゲットに器用にどの路線にも合わせるアレサです。しかし、どれもパッとしません。卓越したピアノ奏者でもあるアレサがジャズ・ギターの名手ケニー・バレルと競演して弾き語った音盤『イェー!!!』は相当の名演です。が、売れません。
この頃、さすがのアレサも音楽の道はあきらめて、家庭に入ることを真剣に検討したことがあったといいます。売れないことには何も始らないのが音楽業界の現実だからです。結局、5年余コロムビアに在籍。8枚の音盤を発表しますが、1966年には契約が打ち切られます。
しかし、アレサは、歌うことにこだわり続けました。不遇の日々が続いても己の才能を信じ、より良き音楽を創ろうとする意思を持ち続けました。
ジェリー・ウェクスラー登場が転機に
1962年10月。世界最大のレコード会社との契約が打ち切られ、傷心のアレサ・フランクリンです。しかし、2本の電話が彼女の運命の扉を開きます。
最初の電話は、フィラデルフィアのゴスペル音楽のカリスマDJだったルイーズ・ビショップが、アトランティック・レコードの副社長兼プロデューサーのジェリー・ウェクスラーにかけたものです。音楽業界の情報に精通しているビショップは、アレサがコロムビアから契約を打ち切られ、放出されて、ただ今この瞬間はフリーだ、と伝えます。
ウェクスラーは、かねてアレサに非凡なものを感じると同時に、コロムビア・レコードは白人層を狙うあまりにアレサの凄さを活かし切れていないと考えていました。自分なら、アレサの魂に迫る黒人の歌を最大限活かし聴衆にアピールする音盤をつくれる……。ただ独立系の弱小レコード会社の出る幕はないともあきらめていました。そこに、アレサと契約するチャンスが突然、巡ってきたのです。
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