「盛駅からJRの大船渡線、気仙沼線、石巻線とつながり、東北一の都市である仙台まで一直線でつながりました。そうなれば、ローカル線としても観光でいろいろ考えられるようになります。岩手県内の観光客だけでなく、宮城県内からの観光客を呼び込むことも可能になったのです」
観光客の呼び込みはもちろん、営業の大きな柱だった。しかし、三陸鉄道が当時、一番力を入れていたのが、地元住民の足、とくに高校生の通学であったという。
「当時、道路も整備されておらず、路線バスも少なかった。隣の市に行くだけでも、峠をいくつも超えなければならない、と言う地域が、三陸鉄道沿岸にいくつも存在していたのです。それが、とにかく駅にさえ出てくれば、街に通える。そこでまず、高校進学率が上がったのです」
1980年代、全国平均で高校進学率が90%を超えていたとき、三陸沿岸部では「通えない」ことを理由に進学をあきらめていた人がいたのである。それが鉄道の開通により、子供たちの将来の選択肢が増えるという、人を運搬する、と言うだけではない役割も果たしたのだ。
道路が整備され、利用者が減った
だが、再び時代の荒波に三鉄の経営は翻弄されるようになる。
「これがモータリゼーションの実情よ」
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