「甲子園のアイドル」荒木大輔がいた年の真実 1980年に降臨、あのときの熱狂は何だったか

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8月5日、夏の高校野球が100回大会を迎えた(写真:共同通信社)
今から38年前の夏、社会現象となった早稲田実業の1年生エース・荒木大輔。高校野球がいちばん熱かった時代の真実を本人やライバル、チームメイトの証言から明かした『荒木大輔のいた1980年の甲子園』の著者である元永知宏氏が当時を振り返ります。

夏の甲子園100回大会が華々しく開幕した。大きな節目にあたって、さまざまなテレビ局、新聞、雑誌が歴史を振り返っている。どの映像も記事も、過去の感動を呼び起こしてくれる。それらを見ただけで涙するファンもたくさんいるだろう。

100回大会を前に私が考えたのは「もし荒木大輔がいなかったら甲子園はどうなっていたか」ということだ。

1980年夏の甲子園に鮮烈なデビューを飾った荒木は当時、早稲田実業(東京)の一年生ピッチャーだった。5月に誕生日を迎えたばかりの16歳。決勝で愛甲猛擁する横浜(神奈川)に敗れ準優勝に終わったものの、初戦から準決勝までの44回3分の1を無失点に抑えたピッチングは見る者に強烈なインパクトを残した。

荒木大輔のいた1980年

もし荒木大輔がいなかったら、甲子園はどうなっていただろうか。

いまほどの女性人気は絶対になかっただろう。荒木降臨前にもアイドル視される球児はいたが、荒木が巻き起こした「大ちゃんフィーバー」を超えるものはない。

2006年に早実の後輩・斎藤佑樹が「ハンカチ王子」ともてはやされたが、「そのときとはまったく比べものにならない」と、当時対戦した池田高校(徳島)の畠山準など多くの野球人が証言している。荒木に会いたいがために、当時男子校だった早実の校内に学ランを着た女子高生が入り込んだという逸話もある。

もし荒木大輔がいなければ、松坂大輔(中日ドラゴンズ)という名前のピッチャーは生まれていなかった。1980年9月13日生まれの松坂は荒木が甲子園の強打者たちをバッタバッタとなぎ倒しているとき、母親のお腹のなかにいた。身重の松坂母が荒木の姿を見て大輔と名付けたというエピソードは有名だ。

1981年夏の甲子園で荒木を倒して優勝投手になった金村義明(報徳学園・兵庫)が西武ライオンズでチームメイトになった松坂にこう言ったという。

「おまえの母ちゃん、なんで息子の名前、義明にせんかったんや?」

もし、「松坂義明」になっていたら、横浜(神奈川)が春夏連覇を果たした1998年の甲子園はまた違ったものになった可能性がある。

もし荒木がいなかったら、1983年夏から1985年夏までのPL学園の時代は訪れなかったかもしれない。荒木と同じ背番号11、一年生でPL学園の優勝に貢献した桑田真澄は、甲子園に5大会連続で出続け、2度の日本一、2度の準優勝とベスト4という素晴らしい成績を残した。

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