「甲子園のアイドル」荒木大輔がいた年の真実 1980年に降臨、あのときの熱狂は何だったか

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荒木の1学年下で横浜商業(神奈川)のエースだった三浦将明にとって、荒木は憧れの存在であり、お手本だった。三浦は言う。

「150キロ近いボールを投げられるのなら、いろいろ考えなくても抑えられるかもしれませんが、140キロそこそこのピッチャーなら頭を使わないと。そういうことを教えてもらいました。アウトコースの低めに力のあるストレートを投げて、そこから曲がる変化球を混ぜる。このやり方をすれば球数を増やすことなく抑えられるし、楽にピッチングを組み立てることができるんです」

三浦は1982年春のセンバツで荒木のいる早実を下し、甲子園で準優勝2回、通算12勝を挙げた。

ピッチャーにとっていちばん大切なもの

もうひとつ特筆すべきは、ピッチャーとしてメンタルの強さだ。マウンドでの心構えと言ってもいい。荒木が荒木大輔である理由について佐藤はこう話す。

「大輔のピッチャーとしていちばんいい部分は、ある意味、不感症であるところ。絶対にまわりに左右されることがない。たったひとりでシャドウピッチングしているときも、大観衆が見守る甲子園のマウンドでも同じ気持ちでいることができる。気持ちのたかぶりもないし、緊張もしない。これが大きいと思う。早実のブルペンも甲子園のマウンドも同じように投げることができる。そんなピッチャーはなかなかいません」

『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

ブルペンや練習グラウンドではいいピッチングを見せるのに、本番で力を出せないピッチャーがいる。荒木は「ブルペンエース」とは対極にいるピッチャーだ。

「試合のマウンドに上がると別人になってしまうピッチャーはいくらでもいます。大輔はどこにいても同じように投げることができる。それだけの精神的な強さと技術を16歳のときに持っていましたね」(佐藤)

相手が強ければ強いほど、自信がなければないほど、自分をより大きく見せたくなるものだ。荒木にはそれがなかった。

高校生の体格は38年前に比べれば大きくなった。140キロを投げるピッチャーはいくらでもいるが、一方でバッティング技術も格段に向上している。下位のバッターでも150キロの速球を跳ね返すパワーを備えていることは珍しくない。過去と現在を同じ土俵で比べることはできないが、ピッチャーにとってヒントになることが38年前の荒木大輔にはある。

(文中敬称略)

元永 知宏 スポーツライター

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もとなが ともひろ / Tomohiro Motonaga

1968年、愛媛県生まれ。立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。直近の著書は『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、同8月に『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)。19年11月に『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(集英社)。2018年から愛媛新聞社が発行する愛媛のスポーツマガジン『E-dge』(エッジ)の創刊編集長。

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