あの「足立区」が妙に盛り上がっている理由 名物区長と活躍する女性たち

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また、2018年6月18日の大阪府北部地震の際には、即日全区立小中学校のブロック塀の図面調査を、翌19日には建築職の技術系職員が全校実地調査を行い、21日には安全性が確認できなかった2校(うち1校は廃校)のブロック塀部分の撤去を完了している。

東京新聞によると台東区は6月28日に調査結果を公表、港区は6月29日から撤去作業に、練馬区は7月1日に調査結果を公表しており、23区内で足立区のスピードは驚くほど。こうした舵取りが足立区を変えてきたことは間違いない。だが、それだけではない。

そもそも、東京23区では新宿区に次ぐ2人目の、しかも辣腕女性区長が足立区で誕生したのには本人の実力以外の背景が考えられる。ひとつは近藤区長の父が議長も務めた地元選出都議会議員であり、知名度が高かったこと。そしてもうひとつは足立区、特に千住界隈は江戸時代から女性が活躍してきた地であったという歴史だ。

江戸時代の人口は新宿区の3倍以上

書籍『足立区のコト。』(彩流社)によると江戸時代の千住は品川、内藤新宿、板橋と並ぶ、五街道最初の宿場町、四宿のひとつ。今の感覚からすると意外かもしれないが、当時の千住は新宿の3倍以上の人口があり、市場もある商業の町。千住を中心に足立区内に豪壮な家屋や蔵が残されているのは当時の足立区には商家の旦那衆が数多く存在していたからである。

武家、農家に比べると江戸時代でも商家では女性(奉公人以外)も家庭内で、仕事上でそれなりの力を持っていた。足立区の女性の歴史をまとめた『葦笛のうた』(ドメス出版)には明治期、女性の小学校への就学率が低い中、千住エリアでは男女がほぼ同率だったこと、千住町の教育会が1924年に最初に作った中等教育機関が高等女学校(現在の潤徳女子高)だったことが記されており、そこからこの地での女性の位置付けがわかる。

働く女性の割合も高く、1920年の「東京市近郊町村勢統計原表」でみると東京市平均が約13%であるのに対し16.6%。1925年時点で全国の市町村立小学校の女性教員が28%だったのに対し、足立区(当時は南足立郡)では40%である。

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