80年代の学生が顧みる東京と地方の大きな差 橘玲×湯山玲子「体験できることが違った」
橘:やっぱり新しいものにちゃんと付いていってたんですね。
僕は大学が早稲田でほとんど新宿にいたから、六本木自体をあまり知らない。あの街は東京育ちのお坊ちゃん、お嬢さまの世界という感じで、大学でも地方出身者と東京出身者でなんとなく分かれてました。
あと専攻がロシア文学だったんですが、ちょっと特殊じゃないですか。ドストエフスキーにかぶれて露文に来るなんてほとんどが田舎者で、クラスに東京出身は1人いたかいないか(笑)。だから70年代的なものも残ってる新宿の居心地がよかった。
湯山:私はそれこそ小学生の高学年から高校にかけて、70年代カルチャーの影響をたくさん受けたけれど、80年代の記号化や、おカネの価値に換算される情報や差異のほうが実のところ、女性の私を自由にしたという実感があるんですよ。
男女平等を口にしながら、年下の女には「女らしさ」の説教をする全共闘男子に辟易してましたからね。だから、自分の欲望と自由は、おカネあってのものだ、みたいな考え方が今の自分の生き方の基本になってるんです。橘さんの著作に惹かれた理由もそこにあるんじゃないかな。でも、著作を読む前は橘さんって、大学で遊びまくって、卒業後、日本を離れモラトリアム留学、そして現地で就職したタイプだと思っていた。
ファッションはトライブによって着分けていた
橘:僕は、田舎から出てきて、周りもみんな田舎者ばっかりだから東京にいたって田舎世界。五木寛之の『青春の門』に出てくる「歌声喫茶」が新宿にあったんですが、最初に教師に連れていかれるんですよ(笑)。
湯山:ちょっと知ってる(笑)。「ともしび」とかいうんじゃないっけ。
橘:そうそう。みんなで革命の歌を歌うんです(笑)。「東京ってこんなとこなの?」みたいな。生活圏はほとんど早稲田・高田馬場・新宿で完結していて、ゴールデン街も割と早めに行ってました。ファッションやブランドという意識は高校生ぐらいからあったんですか?
湯山:服はもう小学生のときから好きでしたね。小学校高学年のとき、新宿の伊勢丹が子どもたちのファッションを打ち出して、「ピエール・カルダン子ども服」を出したんですよ。それを聞きつけた親が「これだ!」って一緒に買いに行って。黒のパンタロンスーツね。それを着て学校に行く(笑)。中高生の頃も流行りの服を原宿に買いに行ってました。特に70年代後半から、80年代初頭は一年ごとに服のトレンドが変化した未曾有の時期だったので、流されまくりでしたね。
橘:その頃ブランドはやっぱりフランスを中心とした輸入物が多かったんですか?
湯山:ちょうど大学生のとき「コム・デ・ギャルソン」が出てくるんですが、当時、最もカッコよかったのは、サーファーやニュートラファッション。面白いのは、たとえば文化服飾学院で自由にファッションやってる人たちのグループがあったとすると、一方で女子大生が牽引する一種のストリートファッションである「ハマトラ」がある、ということ。まったく相容れないファッションがそれぞれ熱を持っていたのが80年代初期なんですよね。みんな消費で自己表現してた。