なぜドイツ人は平気で長期休暇をとれるのか 法制度以上に国民性がバカンスを支えている
視点を変えて、休暇を取る人間の「自我」のあり方に着目すると、「休暇の取れない日本」の説明が、ある程度つくかもしれない。
ドイツは19世紀の産業化で、都市化がぐっと進むが、このとき「労働者」という階層ができた。それは時間を労働の単位としてみる感覚をつくる。労働者たちは周辺の村から都市へやってきたが、地縁血縁という前近代的なしがらみから離れることになり、人間の位置づけもそのものが「個人」という単位が強くなったといわれる。また、並行して「個人」という考え方を精緻化する哲学分野の「知」も政治・社会に大きく影響してきた。
結果的に、ドイツでは「自分の人生は自分で構築する」という「自己決定」の人生観が広がったとみられる。これは同時に他者の自己決定を尊重すべきということだ。
そうなると、全人生のなかで仕事はあくまでも一部分であり、人生のために「健康」や「生活の質」という考え方も生まれ、「労働=自分の時間の切り売り」に対して自由時間という概念も際立ってくる。
長期休暇などの諸権利を明示するドイツの法律などは、こういう自我の感覚を保障するものという見方もできる。そうすると、ポンと休みを取ることを「自己決定」し、それを尊重する他者、という構図の説明がある程度つくのではないか。
一方で「自己決定」が苦手な日本人
日本社会では、自我のあり方が異なる。自己決定は苦手で、しがらみの中で「正しい道」を探し出す発想が強い。それは「空気を読む」といったものにつながり、ひいては休暇の取りにくさの背景になっているのではないか。そして「仕事も人生の一部」という相対化の発想が少ない。
読者諸氏は1年間で「仕事だから仕方がない」という言葉を何回、発しているだろうか? この言葉に対して家族や友人も「仕方ないね」と受け止めることも多いはずだ。仕事への「入れ込み」が「おもてなし」や「サービスの良さ」を実現している面もあるのかもしれないが、仕事に責任を持つということと、人格のすべてを会社に捧げるというのとは意味が違う。
ただ、かつて「しがらみ」には、先輩・上司の親心や温情といった制度化できない「あたたかさ」が働くことも多かった。そのため残業時でも小さな休息があり、意外に職場は安心感のある「共同体」だった。これが長時間労働が現在のように社会問題化してこなかったひとつの理由ではないか。ところが経済環境の悪化により、この「あたたかさ」は機能しにくくなってきている。
こういう理解にたてば、今の時代こそ長期休暇が働く人の心身の健康に必要なものであるという認識が広まり、有休取得促進の議論も進むように思う。日本では休暇を経済効果から見る向きも強いが、それだけでは不十分といえるだろう。
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