地下鉄サリン事件「被害者の会代表」の真実 妻として犯罪被害者として…高橋さんの32年

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「もし私個人の意見を言っても、それは世間的には被害者の会代表の言葉になるから。無責任なことは言えない」。

22年のつどいの時と同じくきっぱりとした口調で話す。気づけば、北千住の地で家族を支え続けた母としての表情ではなく、被害者代表としての高橋シズヱさんの顔になっていた。

「地下鉄サリン事件被害者の会代表」へ

「そんなつらい日々だったのに、なぜすぐ引っ越さなかったんですか?」
思わず聞いてしまった。

「とにかく忙しかったのよ。本当に、家を探す暇もないくらい忙しかったの」と返され、いかに被害者の妻として、被害者の会の代表としての日々がめまぐるしいものだったかを思い知らされた。

そもそも、なぜ普通の主婦だった彼女が「地下鉄サリン事件被害者の会」代表という重責を引き受けることになったのか。事件で夫を亡くしたという理由だけなのだろうか。本人に聞いても、「他の人は小さなお子さんがいたり介護をしたりで大変そうだったから……断るわけにいかないじゃない?」と答えるばかりだった。しかし、被害者の会結成前からシズヱさんのことを知る中村裕二弁護士に話を聞くと、事件やオウム真理教、そして訴訟のことも何もわからない中で、一生懸命に活動に参加していたシズヱさんの姿が見えてきた。

「訴訟を起こすために被害者の会を開こうとしていた時から、一番前の席で一生懸命メモを取っていたのがシズヱさんだった。確かに、最初に任せようと思っていた人に断られたことはあるけど、そこからは彼女しかいないと思ってお願いしたんだ。パワフルで、人との接し方も上手で……君たちも接していてわかるでしょ?」

自然と話を聞きながら深く何度もうなずいてしまう。中村弁護士もそんな私たちを見て納得したように「ある意味、運命だったんだと思うよ」とつぶやいた。

代表に就任してからは、千代田線に乗って400回以上も裁判の傍聴に通う日々が続いた。今では裁判に犯罪被害者が参加するのは当たり前のことになっているが、地下鉄サリン事件当時は参加できなかった。刑事訴訟法を大きく変えることにも奮闘した。数えきれないほどのマスコミ取材にも応じた。悲しみに浸る暇もなく、時間ばかりが過ぎていった。シズヱさんはそう語る。

オウム真理教犯罪被害者救済法の成立までには13年がかかり、決まった時には涙がこぼれた。2010年にやっと給付金が支払われ、2011年に、捕まっていた被告全員の裁判もひと段落。「やっと落ち着いた、もう一線から退こうと思ったの」。しかし、その年の大みそかに逃亡していた平田信容疑者が出頭。ただ茫然とテレビを見つめた。結局、引っ越しが決まったのは翌年の2012年だった。

教祖・麻原被告に死刑判決が一審で言い渡されたのが2004年2月末。命日である3月20日に夫の霊前に報告した数日後、通い続けた裁判所前で桜の木が目に入った。

「そこでやっと、あの日以来ずっと嫌いだった桜が『あぁきれいだな』って思えたの……」

この時、気持ちにひとつの区切りがついたという。

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