「子どもの知性が伸びる教育」の3つの特徴 人生100年時代に向けて大人がやるべきこと
人に葛藤を起こす「適応を要する課題」には「正解のない問い」に向き合う中で出会うことができる。教育現場では昨今、なんらかのプロジェクトに取り組み、その中で学びを得ていく「プロジェクトベースドラーニング」という学び方が注目を集めている。
ゆとり教育によって始まり、いまでは一般的な教科として捉えられている「総合学習」は多くの学校でこのプロジェクトベースドラーニングによって営まれている。たとえば企業が抱える経営課題に取り組むような授業が実際に行われているが、そういった課題に取り組むうえでは、相反する立場を踏まえ、葛藤を経て決断していくことが必要となる。
ただ、このプロジェクトベースドラーニングに取り組めば自己変容型知性を身に付けられるかと言えば、必ずしもそうではない。なぜなら、プロジェクトがフィクションである限り、学びのテーマや討論の議題としては機能しても、自分の中の意識や哲学の変化にまではつながりづらいからだ。
『これからの「正義」の話をしよう』を著したマイケル・サンデル教授が投げかけた問いに、次のようなものがある。
この問いはまさに正解のない問いだ。そしてここで重要なのはどんな答えを出すかではなく、答えを出すまでに抱える葛藤である。この問いに出会った中高生が「正直どちらでもいい」「1人と5人なんだから普通に考えて5人助けるでしょ」と逡巡なしに答えたなら、この営みの価値は激減する。
大事なのは「自分ごと化」
要は、「自分ごと化」したうえで「意思決定」しない限り、自己変容型知性の発達は望めないのである。「自分はどちらを選ぶべきか」という問いに出会い、自分が大切にしてきたことはなにかを考え、その大切にしてきたことを追い求めると不幸にしてしまう誰かの存在に気づいたとしても、決めなければいけない。
そのときに「それまで大切にしてきたことを手放せるのか」「両者を幸せにするような第三の選択はないものか」そうしたことを考えることが、葛藤を「越える」体験になるのである。
子どもたちの自分ごと化を引き出すためには、テーマとの「出会い方」あるいは「決め方」が重要になる。たとえばなんらかの社会課題をお勉強的に大人や先生から提供されたのでは、中高生は取り組むフリはしても、自分ごととして心から取り組みはしない。取り組む中で調整が必要な課題に出会ったとしても、利害やそれまでの経験則、あるいは大人はどちらを大事にしているかを基に、「どこかにある答えを探す」スタンスでしか取り組まないだろう。それでは「適応を要する課題」に取り組んだことにはならない。
ハイフェッツは、既存の考え方を当てはめたり、スキルを身に付けさえすれば解決できる課題を「技術的な課題」と呼んだが、客観的には答えのない課題でも、取り組み方や解決の水準によっては「適応を要する課題」にも「技術的な課題」にもなりうる。
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