チャーチルお気に入り有能女性スパイの正体 イギリスの公文書から読み解く歴史秘話

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しかし、カマエーはプロバンス地方南部にいたゲシュタポにほかの工作員とともに拘束されてしまう。死刑が宣告された。一方、拘束を免れたグランビルはフランス側のゲシュタポ協力者に会い、こう言った。「あと数時間で米軍が到着するわよ」、カマエーらを「解放しなかったら、復讐心でいっぱいのフランス市民にあなたたちを引き渡してやる」。英陸軍指揮官モンゴメリーの姪であるとしてはったりをかまし、200万フランの身代金を提供する代わりにカマエーと2人の工作員の引き渡しを要求した。

3時間にわたる説得と翌日身代金が空中投下されたことで、カマエーらは自由の身となった。グランビルはその功績を称えられて大英勲章(OBE)、勇敢な非戦闘員に与えられるジョージ・メダル、仏戦功十字章を得ることになる。

終戦と同時にSOE工作員としての仕事も消えた。グランビルは、戦時中ドイツとソ連に分割された母国ポーランドに帰ることができなくなった。そこで、英国への帰化申請を出す。それまでも本名ではなく英語名クリンスティン・グランビルを長年使ってきたが、1946年に英国人に帰化したことで、これが彼女の本名になった。

書庫にある特製の箱にファイルが入っている(筆者撮影)

英国国立公文書館にはグランビルが新たな職を求めて政府官僚や関係者と交わした書簡がファイルにまとめられている。戦時中の華々しい活躍の後、何か自分を懸けることができるような仕事を求めていた彼女の姿が浮かび上がる。

「お願いですから、私の名前を削除しないでください…どんな仕事でも喜んでやりますから。ドイツの収容所や刑務所から人々を連れ出す仕事はどうでしょうか、処刑される前に。ぜひやってみたいです」(1945年3月25日、SOEの統括者ハロルド・パーキンス宛の手紙)。保管をされている書類を見るかぎりでは、十分に満足のゆく仕事が見つかった形跡はない。

新たな人生のスタートと思えたが…

グーグルでChristine Granvilleの画像検索をしてみると、若い時に「ミス・ポーランド」大会で競ったこともあるグランビルは美貌の女性だったことがわかる。このため、男性ファンも相当いたようだ。英政府関係者がしたためた複数の文書には「何とか助けてやりたい」という思いがにじみ出る。

1952年春、南アフリカに滞在後、グランビルは英船舶会社「ユニオン・カッスル・ライン」のスチュワーデスとして働き始めた。新たな人生のスタートと思えたが、6月15日、ロンドンのアールズコートにあるシャーボーンホテルでグランビルの死体が発見された。刺殺だった。

犯人は客船の元スチュワードで、以前にグランビルに好意を持ってアプローチをして拒絶された男性デニス・ジョージ・マルダウニーであった。この年の9月30日、マルダウニーは絞首刑となった。1971年、ホテルの保管室にグランビルが残したスーツケースがあることがわかった。中には衣類や書類などが入っていたという。

ロンドン・ケンジントンにある在英ポーランド人が集まる「ポーリッシュ・ハース・クラブ」にはグランビルをしのぶ、ブロンズ製の胸像が置かれている。

小林 恭子 在英ジャーナリスト

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こばやし・ぎんこ / Ginko Kobayashi

成城大学文芸学部芸術学科(映画専攻)を卒業後、アメリカの投資銀行ファースト・ボストン(現クレディ・スイス)勤務を経て、読売新聞の英字日刊紙デイリー・ヨミウリ紙(現ジャパン・ニューズ紙)の記者となる。2002年、渡英。英国のメディアをジャーナリズムの観点からウォッチングするブログ「英国メディア・ウオッチ」を運営しながら、業界紙、雑誌などにメディア記事を執筆。著書に『英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱』。

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