日本のサラリーマンが不幸だと感じる理由 純文学者・磯﨑憲一郎氏の好き嫌い(下)

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商社マンとしての仕事と小説の執筆に違いはない

楠木:普段、商社での仕事もかなりお忙しいと思います。小説は、どういうときに書いているのですか。

磯﨑:早起きなので、まず朝に書いています。朝5時から1時間とか。それ以外は週末です。

楠木:先ほどおっしゃっていたように、プロットを決めずに書くと、何も書けない日もあるのですか。

磯﨑:あります。パソコンをずっと眺めているだけとか。1時間眺めて、どうしようかと迷っているうちに出社する時間になったり、まあ、その繰り返しですね。週末、何時間もパソコンを眺めていても一行も書けないこともあります。

楠木:画家がキャンバスに向かっている感じですね。

磯﨑:そうでしょうね。『往古来今』という作品の表紙に、画家の横尾忠則さんの作品を使わさせていただいているのですが、その絵が描かれる、横尾さんの公開制作を見たことがあるんです。どんな絵を描こうとか、どんな構図にしようとか、何も考えていない状態でキャンバスに向かって描き始めるんですね。「ちょっと黄色が足りないな」と言いながら、いきなり黄色をバァーッと塗りだしたり、急に縦の直線を描いたなと思ったら、それが電柱になったり。観ているだけですごく面白い。

そして、いったん出来上がったなという状態になったときに、「美的要素が足りない」と言って、少し考えた後、キャンバスの隅に往年の女優である原節子さんの顔を描いたりもするんです。これで本当に美的要素が満たされるのかよ!ってツッコミたい感じなんですが、とにかく行き当たりばったり、その場で考えながら制作していくという態度は、自分の小説の書き方と共通していると感じました。

楠木:やはり、予定調和は嫌い、ということですね。

磯﨑:予定調和が人にある種の安心感を与えることは事実だと思います。自分の想定内の範囲だから、読者には理解ができて嬉しいという、喜びを与えることができる。でも、哲学でも論理的な文章でも、次のフェーズに行くというためには、理解し難いことを考え抜かないと進めないと思うんです。

楠木:芸術はまさに真正面から、それに挑戦できますよね。その調子で、商社で仕事をしていたら、それこそ「ハートブレーカー」。みんなが困ってしまいますよね(笑)。作品の制作については、行き当たりばったりということはわかりましたが、普段の商社での仕事のほうは、段取りをしっかりしながら、きちんとこなしているわけですよね。

磯﨑:段取りができるものはしっかりとやりますが、実は、仕事も予期しないことが次々と起こるんです。その場その場で対処しなければならないことのほうが、多いような気がします。とすると、実は、小説もサラリーマンとしての仕事も本質的には同じことなんじゃないかと。自分の倫理観、価値観に照らしながら判断する、予期できないことに向き合いながら前へ進んでいくという意味で。

楠木:なるほど。

磯﨑:先ほど楠木さんが、私の小説について、時空が歪んでいたりしてわかりにくい、ということを指摘されましたが、それでも、小説である以上、超えることができない枠はあります。それは、一行一行、リニア(直線)に進んでいかなければならない、ということです。これだけは、どういう書き方をしようとも、超えることはできないのです。

そして、この構造は、日々、時間の経過という枠の中で、予期しないことが起きるという「現実」にきわめて近いのではないでしょうか。小説を書くという行為と、実際にそういう日々の現実を生きていくことは、そう遠いことではないと思うのです。

楠木:なるほど。そこまで抽象度を上げて考えると違いはない、と。そう考えるのは、40歳を過ぎて小説を書く前から、内面では芸術的な何かがあったのでしょうか。

磯﨑:芸術という形をたまたま取ったのですが、ポジティブなものへの志向性とかは、もともとあったのかもしれませんね。

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