ジミー・ペイジのギターソロのように
楠木:磯﨑さんの小説は、いったいこの話どうなるのかな、というのがまるで想像できない形で進んでいくことが多いのですが、お書きになっている磯﨑さん自身も、先がどうなるかわからないままで書かれているそうですね。やはり事前に落としどころがわかるのは好きではないのですか。
磯﨑:そうなんです。小説家の中には、あらかじめ作品の設計図、プロット(構成)を考えてから書き始める人も多いのですが、私は、そうしたものは一切ありません。何もない状態から書き始めます。
楠木:取材もしないのですか。
磯﨑:しませんね。あるのは最初の一文だけで、次はどう書いたら面白いか、という推進力だけで、その次の一文を考えながら書いているんです。
楠木:なぜそういうスタイルがお好きなのですか。
磯﨑:作者が事前に考えて用意したプロットというのは、読者も必ず見破ってしまうんです。面白くならない。予期せぬ展開を出したいのです。仕組んでいてはそれができません。プロットがないままに書き進めていって、書き上がったときに、自分でも予想できないものが仕上がっていたというほうが、書いていても面白いのです。転調とか段差も含めてですね。それもロックから学んだことかも知れません。
楠木:予定調和ではダメだと。ツェッペリンのギタリストのジミー・ペイジのギターソロみたい(笑)。ギターソロが始まって、そのときのノリというかグルーヴ次第で、どんどん転調していくような。異様に長くて、やっているうちに本人もわからなくなる。
磯﨑:まさにそのとおりです。ペイジも言っていますが、初期のライブでは、実際に演奏が始まってみないと、どんなグルーヴが出るかわからない。そのときの化学反応をステージで起こしてみる。それこそが面白い、と。
楠木:でも、そのような終着点が見えない書き方だと、不安になりませんか。このまま書き続けていると、どうなっちゃうんだろうとか、完成することができるのか、とか。
磯﨑:もちろん、不安になります。書いていて、やっぱり無理だなと思って、時間をかけて書きためたものを捨ててしまうこともありますし。1日かかって、一文も出てこないときもあります。けれど、その不安との戦いこそが、至上の喜びなんですね。
楠木:その辺、マニアですね。というか、いわゆる1つの芸術家。
磯﨑:これは芸術というものはみんなそうかもしれませんが、あらかじめ考えられたものなんて、たいしたものじゃないんです。それを小説や音楽というフォーマットを借りて、その形式に載せて、あらかじめ自分の持っていた力を超えるところまでいかないと、何事も面白くはないと思うのです。
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