「稼げない=無価値」と考える恐ろしい発想 何か人を追いつめているのか?
――いまは「家族」というものも息苦しくなっているようです。
日本の福祉は「日本型福祉」といわれていますが、それは「リスクは基本的に個人(家族や親類を含む)が負担する」というものです。そのためには福利厚生がしっかりした会社に勤め、家を継いでくれる子どもをもち、病気や障害を負えば家族で介護をし、いざというときの経済的な備えは貯蓄や保険で賄う。
それが当然だと思われているから、困難な事態が起こっても「家族で責任をもって助け合いなさい」と、社会から突き放される。新刊(『助け合いたい』)で描いた事例だと、老いた親の介護や経済的な支援は、子どもが負担しなければならない。子どもが失業したり、病気や障害を負えば、老いた親が身を削って面倒をみることになる。でもそれでは、子どもも親も潰れてしまいます。
こうしたマインドは、子どもが幼い頃に、すでに形成されています。前作(『神様の背中』)に描いた話なのですが、取材で話を聞いた、生活保護世帯のお子さんの就職が決まったときのことです。「独り立ち、おめでとう」と言ったら、その子は「わたしはずっとお母さんと暮らします」と言う。「自分の稼ぎで、親を生活保護から抜け出させてあげたい」と、親に自分の人生を捧げるつもりでいるんです。
驚いて「それは本当に、あなたの意思?」と聞くと、「だって、いままで出会った人は100人中100人が、『あなたがお母さんの面倒をみてあげるんだよ』って言った」と言うんです。親戚も近所の人も学校の先生も、「あなたは、あなたの人生を生きていいよ」とは、誰一人として言わなかったと。
そうした周囲からの刷り込みで、子どもたちは自然と「自分が親の面倒をみなくては」と思い込んでしまうのです。
子どもが老いた親の面倒をみるのは当然のこと、と思う人も多いかもしれません。でも実は、非常に不公平な話です。裕福な家庭に生まれたら、親は自分の資産で老後を賄えます。子どもは親の面倒をみなくて済む。でも、親が貧乏な家に生まれた子どもは、成人したら、親が亡くなるまで養っていかなければならない。その結果、貧困が連鎖してしまう。
安心して生きていける社会
――これから、どんな社会に変わっていったらいいと思われますか?
家族同士が支え合う日本型福祉は、経済成長の中で、個人の生活を企業が支えるという前提のもとに成り立ってきました。さらに、女性には経済的な「活躍」は求められず、男性に養われながら育児や介護などのケア労働を無償で担うという役割でした。でも、もうその前提は崩れています。
そんな状況で、家族という閉じられた関係だけで頼り合うと、さまざまな悲劇が生まれます。「家族のことは家族で何とかしなければならない」という縛りから、自由になる必要があります。今度の新刊は、まさにそれがテーマです。
誰も好きこのんで病気になったり、障害をもったりはしません。不測の事態が起きたとき、家族内だけで何とかしようとすれば、行き詰まってしまいます。社会保障制度など、さまざまな社会資源を活用することを、もっと考えたほうがいい。そうすれば、社会に何が足りないか見えてきますし、どんな施策を提言すればいいのか、考える機会にもなります。
誰もが、既定のレールから落ちる恐怖や先の見えない老後におびえず、安心して生きていける社会であってほしい。そのための制度が整った社会を、切に望んでいます。
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