ロックな負け犬が世界的企業ナイキを創った

巨大ブランドを生んだ「弱者たち」の復讐劇

最終章では一気に時代が飛んでこれまでの人生を総括する語りになっているが、そこでも彼が成功を雄弁に語ることはなかった。むしろ運に導かれた部分が大きいことを素直に認めている。成功者となった後にもかかわらず、ビル・ゲイツと会ったら緊張してしどろもどろになった経験を白状しているくらいだ。

感慨を込めながらも、ここまでの成功を振り返るまなざしは至って冷静で、ここにもミュージシャンとの共通点が見えた。どんなに虚勢を張るミュージシャンでも、こと自分の作品を語るときになると、謙虚で冷静、自分が作ったというよりも天から降りてきたような口ぶりで語るのだ。

自分は「敗者」である

コンプレックス、悪く言えば負け犬根性と成功への冷静なまなざし。フィル・ナイトと優れたミュージシャンたちに共通するこの2つの根底にあるのは、謙虚さと素直さだろう。コンプレックスなど誰にでもあるが、みんながコンプレックスをバネにできるほど強くはない。乗り越えられないコンプレックスだってあるだろう。

だが自分が敗者だと素直に認め、そして自分の欠点を認めれば、たとえうつむき加減でいても、足元に何か違ったものが見えてくるのかもしれない。何かが始まるかもしれない。中年を過ぎて今さらながらに、まるで青二才みたいにフィルから教えられた思いだった。

もちろん彼は世界を代表する企業家だから、才能だって並外れているし、常人には理解の及ばない部分を持ち合わせていて、懐も深いのだろう。自叙伝なのだから、本当はそのあたりをもっと雄々しく語ってもいいはずだが、ここで述べられるのは勝利宣言というよりも、若き日の失敗談の告白に近い。自分はみんなと何ら変わりはないと言っているようにも思える。1人語りのミュージシャンのように。

そう考えると、訳が自然と浮かんできた。謙虚さと素直さを持った普通の人間のストーリーとして、いつものように訳していけばいいのだ。

本書にはすてきな場面、共感できる場面がいくつもある。中でも私が好きなのは、彼がペネロペと結婚してすぐに、出張で日本に旅発つときだ。彼は、彼女に「行ってきます」と言って幸せをかみしめる。彼は言う。「相手に対する自分の思いを知るいちばん簡単な方法は、その人に『行ってきます』と言うことだ」と。

そして最後に彼は妻への感謝をこう述べている。「彼女は辛抱強く待ってくれた。私が出張した時も、自分を見失った時も待っていてくれた。……いつも待っていてくれた。……そして今、格闘してきた本書をやっと彼女に手渡すことができる」と。

まるで彼は妻に「ただいま」と言っているようだ。「行ってきます」と「ただいま」。彼はこのささやかな言葉に幸せをかみしめている。そして彼にはそれを伝える人がいる。何だか、彼との距離が一気に縮まった気がした。

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