ふと、この連載を通し、うつ病や双極性障害などを抱えた多くの男性に会ってきたことを思い出した。そこからうかがえるのは、問題が生じた途端、一気に貧困へと陥る、現代社会のセーフティネットの危うさだ。
私が新聞社に就職した1990年代前半などは、精神面に不調を来した社員は負担の少ない部署に異動になり、回復すれば再び元の職場に戻っていったし、ほかの企業にも同じような受け皿的な部署があると聞いた。正社員が主流だった当時は手厚い福利厚生のおかげで、企業や家庭にそうした人たちを内部に抱え込む余裕があったのだ。
ところが、雇用が不安定化するにつれ、「メンタルヘルスの不調=失業、貧困」という光景が当たり前になった。働き方の多様化という「理想」を求めるなら、メンタルヘルスに問題を抱えた人たちはある程度、国や社会が面倒を見る覚悟を持つべきなのに、現実には彼らの多くは置き去りにされたままである。
もう1度、小説の文学賞に挑戦する
マサヤさん夫婦にはファミレスで話を聞いた。彼はひたすら話し続けた。抗うつ剤の副作用でのどが渇くため、途中、何度もせき込むのだが、構うことなく自身の話を続け、取材時間は8時間近くに及んだ。途中で食事を挟んだとはいえ、周囲からは少し浮いていたかもしれない。
「政治からエロまで」などと言われた週刊誌が最も元気だった時代の話は興味深かった。しかし、マサヤさんが前のめりになればなるほど、私はこの後に高い確率で訪れる「うつ転」が気掛かりだった。彼は近くもう1度、小説の文学賞に挑戦するのだという。「昔のような情熱はなくなりました。まあ、色あせた燃えかすのようなものです」。
マサヤさんは、持参した雑誌を持って帰ってくれて構わないと言った。『現代』『創』『宝島30』――。1990年代から2000年代はじめにかけて発行された雑誌は、日焼けと手垢で茶色く変色し、彼の署名記事が載ったページに貼られた黄色の付箋だけが新しかった。
10年以上前の「成果物」でもって自分を語る――。同業者の私にとって無縁の話ではない。出版不況の下、力量もあるユニークなライターが消えていくのはありふれた光景で、そう思うと、私は雑誌を手にするのが怖かった。だから、雑誌はコピーをしてその場で返した。
取材を終えて数日後、マサヤさんから速達が届いた。中身は、泉谷しげると忌野清志郎のインタビューのカラーコピー。私を置き去りにしないでほしい――。そんな叫びが聞こえた気がした。
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