「安部公房とわたし」の真実 女優・山口果林に聞く大作家の実像
でも、そうしたら私の人生も変わっていた。
安部さんが亡くなったあと、私は私自身の人生を作り直してきたと思っています。もしあのとき安部公房さんが生き続けていたら……と考えずに、「自由を与えてくれたんだ」と思うようにして、自信を持って生きてきたと今は言えます。
逆に、もし安部さんに著作権料なんて残されていたら大変な人生になっていただろうし、女優としての人生をまっとうしてこられたかわかりませんから。
自立心、無頓着さ…2人は似ていた
――安部さんに文章指導を受けたことがあるんですね。
1991年、読売新聞の家庭欄で13回連載するというお仕事が来たんです。第1回目は全部手を加えてくれました。今回の本にも載せています。点の打ち方から、語尾まですべて。私の文章修行の、大事な宝物です。
私は、文章は素人ですが、この本は自分で書きました。誰かにインタビューされたものを載せるような内容で終わらせたくなかった。
――相当な読書家でもいらっしゃる。
うちが本屋だからね(笑)(注:実家は日本橋兜町の千代田書店)。本は好きですね。子どものころから、寝る前には必ず本を読むくせがついていました。女優にならなければ、弟ではなく私が家業を継いだかもしれません。
――イチ読書家として、安部公房作品の評価は。
『デンドロカカリヤ』といった若いころの本はスムースに入ってこないですね。『他人の顔』とか『燃えつきた地図』とか、私がおつきあいする前くらいの本はおもしろい。
晩年の安部公房さんは「義務教育を出た人が誰でも読める形容詞や言葉遣いにすごく心を砕いていたと思います。
若いころは戦争を体験して、自分自身で医学部に入るということで兵役を免除された。文章を書くことで、その時代を生き抜く苦しさを紛らわせた。生きるために書く、ということだったと思います。
それが作家としての評価を確立してからは、変わったと思う。文章も、言葉の選び方も。