「安部公房とわたし」の真実 女優・山口果林に聞く大作家の実像
――できるだけ長く仕事を続けるという職業観は早くからあった。
子どもの時から、お年玉を貯金しておくような子だったんですね。早く職業を持ち、経済的に自立したかった。
人間って働くことが生きることだと思うんです。それは専業主婦でもいいんですけれど、何かに動いていること。動くという字に人と書いて働く、じゃないですか。
被爆者の手記を朗読する「夏の雲は忘れない」という劇をもう20年間やっています。収入が得られるわけではありませんが、生きがいになっている。私の住んでいる自治体では、65歳になるとアンケートが来て「週に何日外出しますか」「階段の上り下りのとき手すり側に行きますか」なんて聞かれるんですよね。もうそういう年じゃないですか。でもまだ人のために動けるのはすごく幸せだと思う。
書くことが人生、作家はつねに大変
――そんな山口さんから見て、安部さんにとっての仕事とはどんなものでしたか。
書くことが安部さんの人生。作品がだんだん賞の対象になってくると、次の作品を書くのが苦しくなっていくとはおっしゃっていた。ちょうど私がおつきあいをはじめたころは、『砂の女』で文壇の中での影響力も大きくなってきたころでした。
川端康成さんだって自死なさった。作家ってつねに大変なところに置かれている。
安部さんも書くことに関しては厳密だったし、つねに「前の作品を超えなければいけない」という苦しさで、書く期間も長くなっていったし、だめだと思ったら反故にする……それは若いときよりもどんどん厳しくなっていった。
――安部さん本人は、ノーベル賞を意識していたようですか。
意識していたと思います。晩年は10月のノーベル文学賞発表日のころになると、いやがっていましたね。「(周りが)うるさい」と。
たまたまその時期に箱根の別荘にいたとき、新聞記者がシャッターをたたいた。それで「あ、今日がその日よ」と。すぐクルマにのって界隈をぐるぐる回って時間をつぶし、NHKのニュースで別の人が受賞したとわかったら帰る、なんてこともありました。
でもやっぱり、欲しかったと思います。本人の中では。
担当編集者の方たちとスウェーデンに行ったとき、アカデミーの方に「次にスウェーデンに来るときにはサクラマルに乗っていらっしゃい」と言われたということは、お土産話として聞いたことがありますので、たぶん(賞に)近かったんだとも思います。亡くならなければ、受賞していたのだろうと思います。