大相撲「同部屋対戦」を行わない深すぎる理由 「稀勢の里」と「高安」兄弟弟子である事の意味
現在の番付でいえば、すでに述べたように、横綱稀勢の里と大関高安は同じ田子ノ浦部屋だから対戦しない。横綱日馬富士と大関照ノ富士も、同じ伊勢ヶ濱部屋だから対戦しない。ところが、横綱白鵬、横綱鶴竜、大関豪栄道は同じ部屋の力士が上位にいないから、全員と対戦しなければいけない。
こうした不公平感が特に高まったのは、約20年前、二子山部屋の全盛時だ。貴乃花、若乃花、貴ノ浪と3人の横綱・大関陣に加え、関脇以下にも安芸乃島、貴闘力、三杉里、隆三杉、若翔洋らの実力者が顔をそろえた。同部屋は対戦なしというルールにより、7人もの実力者と対戦を避けられることになる。
これに対して、当時の横綱曙は、同じ東関部屋の力士がまったく上位にいなかったから総当たり。これは著しく公平さを欠く事態であり、個人別総当たりにすべきだとの議論も巻き起こった。
大相撲をスポーツの観点だけで語ってはいけない
スポーツとしての観点からのみ相撲を見れば、これは確かに不公平といわざるをえないだろう。個人競技なら、どんなスポーツでも同じ所属団体や学校の選手同士が対戦するのは当然のことだ。相撲でも、社会人や学生のアマ相撲の大会では同様だ。
しかし、大相撲は、相撲というスポーツのプロであるだけでなく、神事や伝統などさまざまな要素から成り立ち、独特の魅力と価値とをかもしだしている。スポーツとしての観点からのみ語るべきではない。
相撲部屋という制度も、大相撲にとって欠かすことのできない伝統の一つだ。そこから生まれる不公平さには、誤解を恐れずにいえばプラスの面もある。
二子山部屋全盛期、貴乃花と曙が優勝を争っている時、若乃花がしばしば曙を倒し、「援護射撃」と大きく取り上げられた。逆に、曙が、二子山部屋包囲網を突破してつかみとった優勝は、ハンデがあるからこそ価値あるものと称賛された。不公平さゆえに生まれるドラマが相撲に彩りを添える。そこには、杓子定規な公平さ以上の価値や魅力があると思う。
さらに、相撲部屋という制度には、一人ひとりの力士を育てる力がある。高安は、大関昇進伝達の使者を迎えた口上に、「正々堂々精進します」という言葉を選び、こう語った。「どんな状況でも顔色一つ変えずに胸を張っている、そういうのが自分の大関像です。少しでも近づけるように精進していきます」。
この言葉を聞いて真っ先に頭に浮かぶのが、稀勢の里の姿だ。
稀勢の里が横綱に昇進した時、「19年ぶりの日本出身の新横綱誕生」といった言葉が聞かれた。しかし、稀勢の里の魅力は、日本出身うんぬんでなく、それを超えたところ、まさしく「正々堂々」とした土俵態度にある。
目先の白星だけを追い求めず、まっすぐ当たって前に出る。そんな不器用さがときに落とし穴となりながらも、ぶれることなく貫き続け、優勝と横綱をつかみとった。その姿が、多くのファンの心をとらえた。
同じ屋根の下で過ごし、胸を借り続けてきた日々が濃密で純粋なものであるからこそ、「正々堂々」という言葉にこめた高安の思いは、より強く、確かになり、稀勢の里の笑顔は、曇りなく、晴れやかになる。
相撲界にはさまざまな伝統がある。なかには、理不尽で、必ずしも守るべきではないものもあるだろう。
しかし、相撲部屋という制度や、それを支える「同じ部屋の力士は対戦しない」というルールは、相撲の魅力や価値の根本につながる、守るべき伝統だと思う。稀勢の里の満面の笑みに、その思いを改めて強くした。
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